ルカによる福音書

68 喜びへの招きが

ルカ  15:1−10
イザヤ 63:16−17
T イエスさまの正義は

 「さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た」(1) ペレア地方の町々村々を巡回しながら、だんだんと北上していく中でのひとこまと思われます。いつも通りにイエスさまは、ところどころでは数日の間一軒の家に留まり、そこから付近の町や村を訪ねておられたのでしょう。大勢の人たちがその家にやって来て、イエスさまのお話を聞こうとしています。その人たちの中に、一目でそれと分かる取税人たち、罪人たちが何人も混じっていました。目立ったしるしはありませんが、田舎町のことです。だれがどんな人物なのか、隠しようもありません。彼らは、ユダヤ市民として認知されるべき、ユダヤ人会堂での礼拝から締め出された人たちだったのです。そんな彼らをイエスさまは、以前の巡回時でもそうでしたが、ごく当然のように受け入れたのでしょう。噂はたちまちペレア中に広まり、普段、人前に出ることを極力避けているような人たちが、人目をはばかることもなく、イエスさまのお泊まりになっている家にやって来ました。

 その光景を見たパリサイ人、律法学者たちがつぶやきました。「この人は罪人たちを受け入れて、食事までもいっしょにしている」(2) 彼らがそう言うのも無理からぬことでした。罪人というレッテルを貼られて会堂から締め出された人たちは、正常なユダヤ人社会に害毒をもたらす者として、村八分の対象になっており、ユダヤ人社会を守ろうと、パリサイ人たちはその先頭に立っていました。罪人というレッテルを貼ったのも彼らですし、会堂への出入り禁止を申し渡し、そういった人たちをユダヤ人社会から締め出したのも彼らでした。彼らは、神さまの正義を守りたかったのです。ユダヤ人社会は選民として神さまの正義を具現化するところでしたから、それにふさわしくない者たちを排除するのは彼らの義務であり、責任でもあると思っていたのです。エルサレムの長老たちから、危険人物であるという通達が来てはいましたが、会ってみるとなかなかの人物に思え、「ラビ」として遇するにふさわしいと感じたのでしょうか。そんなイエスさまが、彼らの務めに真っ向から反対するような行動を取られたのですから、つぶやきたくもなるというものです。


U 失われた羊を捜して

 そこでイエスさまは、彼らに三つのたとえを話されました。三つ目のたとえ話は有名な「放蕩息子」ですが、少々長いので次回に回し、今朝は初めの二つだけを取り上げます。

 まず、一つ目のたとえからです。「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう」(4-6)

 ペレアの地理的状況が羊の放牧に適していないことは、前に触れた状況説明から明らかと思われますが、それでも百匹もの羊を所有しているのは、恐らく、パリサイ人たちの中でも有力者(金持ちの)と考えていいでしょう。このたとえ話はそんな現実を反映しているようです。彼らの羊を委託されて放牧しているのは、貧しいプロの羊飼いたちでした。イスラエルで何度か、そんなプロらしい羊飼いが、羊の集団を長い杖を使って巧みに誘導している光景を目撃したことがあります。彼らは実に堂々としていて、自動車が来ても、羊たちを驚かせないように、自動車のほうを止めてしまいます。羊たちも、彼の杖に誘導されて安心なのでしょうね。命令には従順です。そんな信頼関係があってのことでしょうか。行方不明になった羊がたった一匹でも、プロとして、青くなって捜さないわけにはいきません。羊は臆病な動物ですから、絶えず集団で行動を共にする習性があるのですが、それでも草を食べるのに夢中で、はぐれてしまうことがあるようです。ヨルダン渓谷の辺りは、ペレアの高地から流れ込む幾筋もの川があって、羊が迷い込む絶好の地形でした。

 懸命に捜して、彼らもプロですから、羊が迷い込むようなところを重点的に捜したのでしょうか。ついに見つけた時の喜びは、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うほどのものでした。この貧しい羊飼いに、イエスさまはご自身を重ね合わせているのでしょうか。いなくなった羊は「罪人」、つまり、神さまから遠く離れてしまった魂を言っています。そして、ここには、そのパリサイ人たちに、魂を見出した喜びを「共有しようではないか」という問いかけも、含まれていると感じられてなりません。


V 喜びへの招きが

 もう一つのたとえ話、「なくした銀貨のたとえ」です。「また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう」(8-9) 第一のたとえ話「いなくなった羊」と極めて似ていますが、羊を銀貨に換えて、同じ教えを強調したということだけなのでしょうか。それですと、わざわざ銀貨を持ち出す必要はないと思うのですが……。この銀貨ということで、少し考えてみたいと思います。銀貨、これは神殿に納めるために用いられるシケル銀貨(或いはスタテル銀貨=マタイ17:27)のことでしょう。通貨に換算しますと4ドラクマ(ギリシャ通貨)、単純換算で日本円では約千円に当たります。しかし、当時の庶民生活で主役だった銅貨コドラントが1円単位の規模だったことを考えますと、銀貨はその一千倍以上の価値を有していたと言えそうです。1ドラクマが羊一頭の値段だったそうですが、現代、羊4頭の値段はいくらなのでしょうか。少なくとも何十万円かはするでしょう。そう考えますと、銀貨10枚を所有しているこの女性は、現実味を帯びた金持ちと言えます。

 そんな銀貨を用いて、イエスさまは私たちに何を伝えようとされているのでしょう。一枚のなくした銀貨は、羊の場合と同様に神さまを見失った罪人の魂を指していますが、羊よりももっと価値あるものという、「罪人の悔い改め」に対するイエスさまの強い関心を示しており、それだけにパリサイ人へのメッセージとして、そのボルテージが上がっていることを物語っているようです。そして、マタイでは、羊のたとえ(18:12-14)だけで銀貨のたとえはないのですが、ルカはこの独自の記事を加えて「失われた魂の救い」を語っており、これはルカのメッセージと聞くことができるかも知れません。銀貨を、これはシケル銀貨であると説明しました。確かにユダヤ人感覚ではそうなのですが、このギリシャ語のテキストには、実は、ギリシャ通貨の「ドラクマ銀貨」が用いられています。この福音書の読者が、おもにギリシャ語を話す人たちと想定してのことではないでしょうか。そして、なくした銀貨を懸命に捜す女性はイエスさまに他なりませんが、ルカは、13:20と同じように、わざわざここに「女性」を登場させています。ギリシャ・ローマ世界における女性の地位がルカの中で違和感がなかったためでしょうし、彼の最大関心である異邦人教会では、女性が大きな位置を占めていたためと思われます。

 さて、この二つのたとえには同じ締めくくりが加えられます。「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです」(7)「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです」(10) だから《あなたがたもその喜びを共有する者となりなさい》と、それはパリサイ人への勧めでしたが、そこには、現代の私たちも招かれていると聞かなければなりません。自分の魂と同じように、失われた他の魂にも心を向けていきたいですね。