ルカによる福音書

67 見張り所に立って

ルカ 14:25−35
ハバクク 2:1−3
T 弟子たることを志すなら

 「さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていた」(25)と、今朝のテキストが始まります。この光景は、その地名は聖書に記されていませんが、恐らく、イエスさまたち一行がペレアの町々村々を巡回し始められたということなのでしょう。この地方はヨルダン川の東岸に位置し、東西の幅は20`くらいとそれほど広くはありませんが、南北には約100`と長く、南端は死海の中ほどにはじまり、北端はサマリヤ地方の北にまで延びています。その大半は1000bほどの荒涼たる高地で降雨量も少なく、中腹地帯ではオリーブやぶどうの栽培が行われ、その下方には麦畑もありますが、人が居住できる環境ではありません。人の住めるところはヨルダン川沿いだけと考えていいようです。死海にかかる地域も荒野ですから、イエスさまたち一行はヨルダン川沿いに北上したものと思われます。17:11に「そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた」とありますから、このペレアの町々村々の巡回は、エルサレムへの道のり最後の旅だったようです。

 イエスさまに同行していた大勢の人たちは、ガリラヤから一緒だった弟子たちに加え、新たに弟子になった者たち、そして、その大半がシンパになったペレアの人たちではなかったかと思われます。イエスさまはその人たちに言われました。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません」(26)

 非常に過激な発言です。特に、「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹……を憎まない者は、」などと聞きますと、思わず拒否反応を起こしてしまいそうですが、もともと、その原型になった旧約聖書では、この「憎む」は「きらわれる」(申命記21:15・アラム語では「より少なく愛する」)という意味を持っています。そのニュアンスを汲み取ってでしょうか、口語訳は「捨てる」というソフトな言い方を選択しています。イエスさまがそんな非情なことを言われるはずがないと、その真意をいろいろと推測する人たちがいたようですが、恐らくここは、いささかもその語意を弱めたり、こじつけた解釈をすることは適当ではなく、どんなに拒否反応を起こそうとも、字義通り「憎む」と聞かなければならないところだと思われます。弟子たることを志すなら、このような犠牲を払ってでもイエスさまに従い通すのだと、イエスさまはそれを期待しておられると聞かなければなりません。


U 塔を築く

 イエスさまは今、ペレアを通り抜けようとしておられます。それは、間近に迫った十字架への道の一歩一歩を刻むものでした。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」(27)とは、ご自分の十字架に弟子たちの殉教を重ね合わせているのかも知れません。十字架はもともと重罪犯に対するローマの処刑方法でしたから、このことばは弟子たる者が受けるかも知れない苦難・殉教を指していると聞こえてきます。「自分の」ということばには、そんなニュアンスが感じられてなりません。弟子たちの殉教は、教会の時代を迎え、彼らが独り立ちの伝道者となることで、急速に現実味を帯びて来ます。その覚悟が問われたのです。ルカは、それが現実となっていく使徒行伝の時代を念頭に置きながら、この記事を書いているのでしょうか。迫害が熾烈になり、弟子たちが次々に殉教していく……。使徒行伝の後にそんな時代が続くのですが、ルカはそのような時代の幕が開けて行くのを見ていましたから、次々と誕生していく異邦人教会への励ましを込め、このメッセージを聞いて欲しいと願ったのでしょう。

 続く二つのたとえは、そんな弟子たちの立ち方を改めて問いかけるものでした。「塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人たちはみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった』と言うでしょう」(28-30)「また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、2万人を引き連れて向かって来る敵を、1万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、敵がまだ遠く離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう」(31-32)

 「塔」とは、古代都市国家が張り巡らした、城壁の一角にある見張り塔のことです。それは、敵がどれほどの規模で、どんな作戦を展開して来るのかをいち早く見極める司令塔でもありました。伝道戦線で活躍することになる弟子たちは、何よりも、その塔に上り、信仰の戦いに勝利するための方策を探らなければなりません。どのようにしてでしょうか。ハバクク書にこうあります。「私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかをを見よう」(2:1) 見極めなければならないことは、祈りに対する主の答えです。あなたはその塔を築き上げることが出来るか、と問われているのです。塔とは、祈りであり、主への信頼であると言うことが出来るでしょう。主との太いパイプである塔を築くことが出来るなら、戦いには主ご自身が参戦してくださるのですから、恐れることはありません。初代教会の弟子たちがあのように臆さずに出て行くことが出来たのは、その塔あってのことではなかったでしょうか。


V 見張り所に立って

 これは、現代の私たちに対する勧めでもあると聞こえてきます。そのように聞いてきますと、続く二つの結語が心に響いて来るではありませんか。第一の結語からです。「そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません」(33) 全財産を捨てる、それは、自分の財産に頼るのではなく、主に頼ることを第一に、ということなのでしょう。当然ですが、私たちはしばしば自分の持っている物に拘ってしまいます。それすら主が与えてくださったものであるのに、そのことを忘れてしまうのです。「基礎を築いただけで」とありましたが、信仰告白を指しているのでしょうか。洗礼を受けた段階と言っていいかもしれません。しかし、クリスチャンの戦いは、そこから始まるのです。その戦いを勝ち抜いて、はじめて主に認められる「弟子」となっていくのです。その戦いの極めて重要な相手()は全財産、とりわけ金銭であると覚えておきたいですね。ルカの目はここで、シンパと弟子の違いに向けられているようです。

 もう一つの結語から聞いてみましょう。「ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。土地にも肥やしにも役立たず、外に捨てられてしまいます」(34-35) 「塩けをなくしたら」とは奇妙な言い方ですが、原意は「ききめをを失う」(口語訳)というもので、塩として役立たない状態を指しています。塩は死海周辺から産する岩塩のことですが、そこから取り出した微量の純塩は食品の味付けと腐敗防止に用い、純度の低い粗塩は畑にまいて雑菌の繁殖を防いでいたようです。岩なのか塩なのか区別出来ない部分は、道路の舗装材料にされました。マタイが「人々に踏みつけられるだけ」(5:13)と言うのは、そのことを指しています。弟子たちに求められたのは、純塩や粗塩のような役立つあり方なのでしょう。塩ですから、塩けという食品の味付けに役立つこともですが、むしろルカは、腐敗防止を重く見ているようです。なぜなら、福音を携えて人々の間に送り出されようとしている弟子たちは、サタンの虜囚となっている人々(自分も含めて)の罪と向き合わなければならなかったからです。彼らは、祈りに対する主の答えを求めて塔に上るよう勧められていますが、同時に、世の動きや人々の心の中までも見通して警告を発していく、預言者の役割を担おうとしていたのでしょう。現代の私たちは、それほどの重い務めを主から託されていると意識しているでしょうか。「聞く耳ある人は聞きなさい」(35)と言われていますが、塔に上るとは、そのように神さまのみことばを聞き応答することであると覚えていきたいと願います。