ルカによる福音書

66 み国への招待状を

ルカ  14:1−24
イザヤ 42:5−9
T ある安息日に

 「ある安息日に、食事をしようとして、パリサイ派のある指導者の家にはいられたとき、みんながじっとイエスを見つめていた。そこには、イエスの真正面に水腫をわずらっている人がいた」(1-2)
 ルカは、またもやイエスさまがパリサイ人から食事に招かれた時の様子を取り上げます。7:36-と11:37-に続いてこれで3度目です。今回は意識してでしょうか、「ある安息日に」とあります。安息日に病人を直した記事も、6:6-、13:10-と今回で3回目です。「安息日に病人を直す」、それは重大な律法違反であり、許しておいてはならないと、パリサイ人たちはその現場を再現し、イエスさまへの厳重注意、もしくは「彼は危険人物だ」というレッテルを貼ろうとしているのでしょう。そのために彼らは、綿密な計画を練って、この舞台を設定したものと思われます。「みんな」とは、ペレアの主だったパリサイ人たちが集まっていたことを想像させますし、「水腫」を患っている病人がイエスさまの真正面の席にいたこともまた、彼らがわざわざ呼び寄せたのであろうと推測させます。「みんながじっとイエスを見つめていた」とは、イエスさまが必ずやこの病人を直すであろうと期待してのことでした。

 そこで、イエスさまは律法の専門家やパリサイ人たちに、「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか」(3)とお尋ねになりました。イエスさまのこの発言は、「安息日には何の仕事もしてはならない」として来た人たちへの、挑戦のように感じられます。だからでしょうか、彼らは黙って(4)、何の反応も示していません。安息日厳守は彼らの教えの中心でしたから、それをないがしろにするようなことは断じて認めないぞという、何とも冷たく、陰険な空気を感じさせるではありませんか。イエスさまは、何も答えない彼らに失望されたのでしょうか。「その人を抱いて直してやり、そしてお帰しになった」(4)とあります。当然ながら、癒された人は、心からの感謝と神さまへの賛美の声を上げたかったのでしょうが、彼は沈黙のまま家に帰されてしまいます。イエスさまは、パリサイ人たちの憎しみに、この病人を巻き込みたくはなかったのでしょう。そして、言われました。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか」(5) パリサイ人たちは何も答えることが出来ません。イエスさまへの反感を思いっきり内に溜め込んで、ひとまず引き下がったということなのでしょう。
 ルカは、この安息日の出来事から、何を語りたかったのでしょうか。


U 福音という枠組みの中で

 ルカのメッセージは、その席で語られたイエスさまの勧めの中ではっきりして来るようです。
 その食事の席に招かれて来た人たちが、こぞって上座を選んで座るのを見ておられたイエスさまは、婚礼に招かれた時には、上座に座ることがないようにと戒められました。まず第一のお話です。「招かれたなら、末席に着きなさい。そうしたら、招いた主人が、もっと上座にと言うでしょう。そのとき、あなたは満座の中で面目を施すことになるのです」(6-11) そして、彼らを招いたその家の主人にも言われます。「祝宴を催す時には、貧しい人、不具の人、足なえ、盲人たちを招きなさい。その人たちは、(金持ちなどと違って)お返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです」(12-14)と、これが第二話です。この二つのお話は、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」(11)「義人の復活のときお返しを受ける」(14)というそれぞれの結語から、神さまのみ国を基準としていることがお分かりでしょう。神さまのみ国には、上座、下座の区別はなく、また、「お返し」の文化があるわけでもありません。それは、人間社会の、富める者たちだけに通用する文化です。パリサイ人たちの「上座を好み」「お返しを期待する」在り方は、神さまのみ国からは遠く離れており、神さまのみ国は、「末座に座り」「お返しを期待出来ない」者たちが集う、そんなパリサイ的な思考とは正反対のところであると聞かなければなりません。

 このメッセージの中心に置かれた、「自分を低くする(者は高くされる)」ということを考えてみたいのですが、これはイエスさまが何度も(18:14、マタイ23:12)語っておられるもので、「自分を低くする」とは、単なる「謙遜」のことではなく、人が聖なる神さまの前に立つとき、「罪人の私は死ななければならない」と、自らの存在価値を徹底的に否定せざるを得なくなるということを言っているのです。しかし私たちは、それほどの自己否定をすることが出来るでしょうか。「否」と言わざるを得ません。ここで、パウロの証言を聞いて頂きたいのです。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました」(ピリピ2:6-9) イエスさまが私たちに代わって、神さまの御前で低くなってくださったのです。
 ルカは、このメッセージを、福音という枠組みの中で聞いて欲しいと願っているのでしょう。


V み国への招待状を

 同席していたパリサイ人の中には、イエスさまの福音(ユダヤ人にとって、神の国という概念)にまで踏み込んでお話を聞いていた人もいたようです。彼は、「義人の復活」ということに刺激されたのかも知れませんが、「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう」(15)と言いました。そして、その義人には、当然、自分たちパリサイ人(一部の心ない者たちを除いて)も含まれていると信じ込んでいたようです。神さまのみ国での食事風景は、イザヤ書や詩篇などに記されています。「万軍の主はこの山の上で万民のために、あぶらの多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多いあぶらみとよくこされたぶどう酒の宴会を催される」(イザヤ25:6) 選民ユダヤ人たちは、自分たちはその食事に招かれた唯一の民族であると全く疑っていませんでした。イエスさまもそんな風景を思い浮かべておられたのでしょうか。「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた」(16-24)と話し始められました。「宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に『さあ、おいでください。もうすっかり用意ができましたから』と言わせた」(17)ところが、招かれた人たちは、誰もがさまざまな理由を申し立てて、その宴会に来ようとはしないのです。「畑を買ったので、見に行かなければなりません」「5くびきの牛を買ったので、それを試さなければなりません」「結婚したので……」 マタイにも、同じものと思われるイエスさまのお話が出て来ます(22:1-14)が、そこには「彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行った」とあり、自分たちの利益を優先させ、招いてくれた人(マタイでは王)のことなど、眼中にありません。

 このお話は、まさに神さまのみ国での宴会を指しているのです。「時刻が来たのでしもべを」とは、イエスさまご自身を指しているのではないでしょうか。神さまのみ国からの招待状を携え、「時刻になった」と、イエスさまは今、私たちのところに来ておられます。ところが私たちは一様に、「今、忙しいから」と、その尊い招きを断り続けているのです。このパリサイ人たちの有り様は、まさに現代の私たちに重なってきます。「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか」と問いかけられたことも、そんな福音の枠組みで見るなら、これはパリサイ人たちへの神さまのみ国の招待状(イエスさまご自身を受け入れること)だとはっきりして来るではありませんか。ところが、彼らは応えることを拒否しました。そんな者たちに代え、神さまは、「貧しい人、不具の人、足なえ、盲人たち=自分を低くする者たち」を招こうとしておられるのです。現代の私たちには、どのような招待状が送られているのでしょうか。聖書からその招待状を見つけ、それに応えて頂きたいと心から願います。