ルカによる福音書

65 福音に心の耳を

ルカ  13:31−35
イザヤ 63:16−17
T 陰謀を弄して

 今朝のテキストは、「ちょうどそのとき」(31)と始まります。イエスさまがヨルダン川を渡ってペレアに入られた時のことと思われますが、何人かのパリサイ人が近寄って来て、イエスさまに言いました。「ここから出てほかの所へ行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうと思っています」(31) ユダヤ地方でのイエスさまの動向は、恐らく、細大もらさず、父ヘロデ大王から受け継いだもう一つの領地・ペレアに来ていたヘロデ・アンティパスの耳に届いていました。彼は、バプテスマのヨハネを処刑したばかりの気持ちの高ぶりを、ヨハネ以上に目障りなイエスさまにも向けていましたから、必ずやこの者を抹殺せずにはおかないと、思い極めていたのでしょう。メシアであろうと噂され、やがて自分の王位をもおびやかす存在になるであろうイエスさまに、ヘロデはおびえていたのでしょうか。大王と呼ばれた父ヘロデもそうでした。このパリサイ人たちは、ペレアの会堂を舞台に律法主義を守ろうとする者たちで、恐らく、エルサレムの長老たちから通達を受けてイエスさまのペレア入りを知り、待ち構えていたものと思われます。彼らは、王に直接面会することの出来る要職についていたと想像されますが、ヘロデの殺意を伝えることで、イエスさまをこのペレアから追い落とすことが出来ると考えていました。もしかしたら、追い落とすだけでは足らず、イエスさまのいのちを狙っていたのかも知れません。つい先日、ユダヤ地方で、安息日に同僚のパリサイ人たちがイエスさまにやりこめられた(13:10-17)ばかりでした。イエスさまの存在自体が自分たちにとって極めて危険だと、ヘロデとパリサイ人とはその点で一致していましたから、恐らく、ヘロデが彼らをイエスさまのところに送り込んだのであろうと思われます。そのヘロデにイエスさまのペレア入りを伝え、あおり立てたのも、彼らパリサイ人たちだったのでしょう。しかし、いくら何でも、大勢の民衆に慕われているイエスさまを、ペレアで逮捕、処刑などという暴挙の断行をためらった彼らは、まず、イエスさまをペレアから追い出しにかかりました。ペレアから出たところを狙おうという腹づもりなのでしょう。当時は強盗団も跋扈していましたから、責任はその者たちに転化すればよい。そうすれば、民衆の反感を買うこともあるまい……と。


U 主の決意は

 イエスさまはそんな彼らの意図を見抜かれ、「行って、あの狐にこう言いなさい」(32)と、策謀に長けた彼らの悪意を言い当てます。「狐」とは、いかにも策謀を弄するヘロデにぴったりのイメージではありませんか。イエスさまは、王の権力など全く意に介していません。「よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人を直し、三日目に全うされます。だが(岩波訳は「いづれにしても」)、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです」(32-33)「悪霊どもを追い出し、病人を直す〈そして、福音を伝える〉」イエスさまのお働きが、「今日も明日も」続けられる。何人と言えども、決してこれを止めることは出来ないと、イエスさまの断固たる決意が聞こえてくるようです。しかし、イエスさまは「三日目に全うされる」と言われました。恐らく、その真意はヘロデたちには分からなかったでしょうが、それは、そのようなお働きが急速に終わりに近づいたことを言っていると思われます。新共同訳は「三日目にすべてを終える」と訳しています。短い滞在の後、イエスさまはペレアをお発ちになりますが、その後サマリヤ付近まで北上し、そこからは足早に南下し始めました。エルサレム入りの目標だった過越の祭りが近づいて来たのでしょう。町々村々を巡回する旅も終わりに近づいて来たようです。数週間後にはエルサレム入城が待ち受けているのです。

 まさに、「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえない」出来事が近づいていました。この「預言者」とは、ヘロデたちがメシアとは断じて認めたくない、しかし、恐らく預言者なのだろうと格下げしてしまったイエスさまを、そんな彼らに合わせた言い方なのでしょう。しかし、昔の預言者たちも、自分たちの不利益になるとばかりに、王たちは殺してしまったのです。ゼカリヤを殺したヨシュア王(歴代誌24:22)、ウリヤを剣で打ち殺したエホヤキム王(エレミヤ26:23)がそうでした。ヘロデもきっとこのわたしを殺すであろうと、イエスさまは見抜いておられたのです。ただ、ペレアから出たところでと彼らは密計を練っていたようですが、その意に反してイエスさまは、ご自分が死ぬところはエルサレムだと言われます。エルサレムは、アブラハムが愛し子イサクを神さまに献げようとした時から、神さまの贖いの地として、その歴史を刻んで来ました。その地では、モリヤの山に建てられた第一神殿、第二神殿の時代を通して、ユダヤ人の贖罪のいけにえが献げられてきましたが、何人もの預言者がそこでいのちを奪われたのも、彼らがメッセージを託された神さまの使者だったからでした。

 私たちの罪のために十字架におかかりになったイエスさまは、まさに「エルサレム以外の所で死ぬことはありえなかった」のです。その十字架が刻々と近づいて来ました。


V 福音に心の耳を

 「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。わたしはあなたがたに言います。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたの言うときが来るまでは、あなたがたは決してわたしを見ることができません」(34-35) エルサレムの都を一望に見下ろすオリーブ山の一隅に、ここからエルサレムを見ながら嘆かれたのであろうと言われるところがあります。そこに、そのようなことを記した、小さく、粗末な木の柱が立っていました。マタイの同じ記事(23:37-39)は、そんな状況を物語っているようです。しかしルカは、その記事をここに挿入しました。もはや彼の目は、ヘロデではなく、エルサレムに向いているのです。エルサレム崩壊は、ユダヤ人の反乱を押さえようと進軍して来たローマ軍のもとでのAD70年のことですが、その頃ルカはまだ健在で、多分、エペソ(彼のであろうと伝えられる墓がある)に移り住んでいたようです。しかしルカは、少なくとも、エルサレム崩壊を予想しながらこの福音書を執筆したわけではありません。

 彼は、エルサレムの将来について語ろうとしたのではなく、これから向かうエルサレムでどんなことが起こるのか、何がイエスさまを待ち受けているのか、まるで読者(私たち)が拡大鏡で見るかのように、この記事をここに挿入したのではないかと思われます。ルカの関心は、イエスさまが人々に捨てられ、そして、殺されるのだと、その一点に向けられています。イエスさまの福音にと言ったほうがより正確でしょうか。「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」とは、エルサレム入城の折、黄金の門で民衆が叫んだものですが、皮肉なことに、十字架の局面を迎え、彼らは敵対に走ってしまいます。その同じ光景が、再現されるということなのでしょう。この福音書を執筆中のルカの目は、十字架だけではなく、よみがえり(恐らく、ここに再臨も重ねられている)のイエスさまを見ているのです。この「エルサレム」は、オリーブ山から一望出来る都ではなく、私たちが住んでいる町、更に突っ込んで言うなら、私たち自身・私たちの罪を、そこに重ねているのではないでしょうか。これは、彼の時代とその後の異邦人教会へのメッセージでした。イエスさまが私たちの罪のために十字架におかかりになったこと、そして、救いの完成のためによみがえられたこと、更に、現代の私たちもイエスさまにお会いすることが出来るという再臨の約束のこと。その「福音」を、ルカのメッセージに聞いて頂きたいと心から願います。