ルカによる福音書

63 喜びの油をもって

ルカ 13:10−21
イザヤ  61:1−3
T 信仰の応答を

 「イエスは安息日にある会堂で教えておられた」(10)と、新しいフレーズが始まります。安息日にユダヤ人会堂で説教をするのは会堂管理者の指名によるのですが、会堂管理者(会堂司)がその日の新来者に聖書を手渡し、聖書の朗読と説教をしてもらう。それは、ユダヤ人会堂の習慣のようなものでした。会堂司がイエスさまを見て、この方ならと感じての依頼だったと思われます。恐らく、そこはユダヤ地方の田舎でした。以前、ガリラヤ地方の会堂で、イエスさまは安息日に右手のなえた人を癒されたことがあり(6:6-11)、それがパリサイ人との葛藤の始まりの一つになっているのですが、恐らく今回の、安息での癒しは二回目のことでした。その会堂で礼拝を守るのは、イエスさまにとって始めてのことだったのでしょう。パリサイ人たちのイエスさまを危険人物に指定した1年ほど前の通達は、ここではどこか遠いところのことと聞き流され、まさかその人物が自分たちのところに来ていようとは、夢にも思わなかったのかも知れません。

 もっとも、そんなパリサイ人たちの思惑など意にも介されないイエスさまは、長い間病いに苦しんでいる人を見て、手を伸ばそうとされました。それは自然な成り行きでした。「すると、そこに18年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。イエスはその女を見て、呼び寄せ、『あなたの病気はいやされました』と言って、手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた」(11-13) 彼女は会堂に来ることが出来たのですから、ゆっくりとではあっても、自分の意志で歩くことが出来たのでしょう。イエスさまは彼女をご自分のところに「呼び寄せ」ました。それは、人々の注目の中で、彼女がイエスさまの要望に応えたというその意志を大切にされたからではなかったでしょうか。パリサイ人たちの妨害も当然考えられる場面でしたが、彼女は自分の意志を貫きました。それは、イエスさまに対する彼女の信頼を物語っているようです。「あなたの病気はいやされた」というイエスさまの宣言は、「ご婦人よ。あなたはあなたの病弱さから解かれたのです」(岩波訳)と訳すべきもので、まさにイエスさまは、彼女に信仰の応答を求めていらっしゃるという、ルカのメッセージが聞こえてくるようではありませんか。


U 福音への反応は

 ところが、それを見た会堂管理者は腹を立て、会衆に言います。「働いてよい日は6日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日にはいけないのです」(14) 彼はその怒りを会衆に向けました。きっと、イエスさまのうわさを聞いていた人たちは、病気の彼女がイエスさまに呼ばれた時から、行われるであろう奇跡に期待したと思われます。それは、会堂管理者らにしてみれば、イエスさまと同罪であり、律法違反に他なりません。彼らは、イエスさまの行為がまるで伝染病のように広がっていくのを、何とかくい止めようと考えたのでしょう。たった一つの小さな律法違反でも、それを許せば、彼らパリサイ人が支配するユダヤ人社会崩壊につながると、彼らは何よりもそのことを恐れていたからです。

 しかし、イエスさまは言われます。「偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか。この女はアブラハムの娘なのです。それを18年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか」(15-16) 「偽善者たち」と複数になっているのは、17節に「反対していた者たちはみな」とあり、会堂司に組みするパリサイ派の勢力がこの会堂を支配していたことを意味します。安息日に家畜に水を飲ませるなどの世話を、イエスさまは否定していません。むしろ、家畜の世話をするならば、人間をも「〜してはならない」ことから解放すべきではないのかと、彼らを偽善者と呼んだ第一の理由がここにあります。そしてイエスさまは、この女性を「アブラハムの娘」であると言われました。恐らくこれまで、彼女はまったくそのように扱われてはいませんでした。むしろ役立たずの邪魔者視されていたのでしょう。もし、彼らが本当に律法を大切にしているのであれば、そんな弱者への配慮があって当然と思うのですが……。彼らの律法主義は、エルサレムの長老から通達された細かな規定のみを優先させるという、ただ彼らの権威を守ることに集中していましたから、その点でも「偽善者」だったわけです。

 イエスさまの懇々と話されることばを聞いて、「反対していた者たちはみな、恥じ入り、群衆はみな、イエスのなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ」(17) と、これは主の新しい福音への反応でした。


V 喜びの油をもって

 しかし、いかにも中身があるように感じさせますが、この反応は実は、うわべだけの空虚なものに過ぎませんでした。これは、マタイでガリラヤでのメッセージ(13:31-33)とされているものですが、イエスさまが語られた二つのたとえ話が加えられています。「神の国は、何に似ているでしょう。何に比べたらよいでしょう。それは、からし種のようなものです。それを取って庭に蒔いたところ、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました」(18-19)「神の国を何に比べましょう。パン種のようなものです。女がパン種を取って、3サトンの粉に混ぜたところ、全体がふくれました」(20-21)と、これはルカのメッセージなのでしょう。

 ルカは、今回も彼の時代と後の時代の教会に向けてこれを語っているようです。初めはとても小さな種でしかないのに、大きくなり、空の鳥が宿るようになる。空の鳥はユダヤ人以外の人たちを指しているのでしょう(29参照)。「神さまのみ国」は、教会の延長線上に実現するものと考えているのかも知れません。しかしそれは、まだまだ小さな群れでしかないのです。始まりかけている迫害がルカの念頭にあったのでしょうか。その小さな群れがどのようにして全地をおおうようになるのか。それはイエスさまの内的力によるのであろうと、現代の私たちにも続く問いかけと確信とが、ルカの中に率直な葛藤を引き起こしている様子が見えるようです。それは、終末に向けて私たちの内にイエスさまの力が蓄えられつつある段階の、まだ進行中のことなのでしょう。ルカは、彼の時代の教会内にその力が蓄えられつつあると期待しながら、この福音書と使徒行伝を執筆しました。彼の期待と確信とを、第一ステージに戻って、二つの点から聞いてみましょう。

 「神さまのみ国」が全地を覆うようになるために、ルカは、まるでそれが私たちサイドの条件でもあるかのように、二つの要素を第一ステージに密かに忍び込ませました。第一の要素は、「解放された」(12、15、16)ということばにあります。ルカは、イエスさまの福音とは、まず何よりも解放されることであると言っているようです。何からの解放でしょうか。イザヤ書にこうあります。「主はわたしに油をそそぎ、貧しい者には良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ……」(61:1) これはイスラエルのバビロン捕囚からの解放を預言したものと思われますが、それだけではなく、預言者はやがて終末の時代に来る筈の、メシアによる解放、罪からの解放ということにも含みを残しています。ルカは、イザヤのそのメッセージ実現が、イエスさまによるのだとしています。彼はイエスさまの十字架の贖罪を語っているのです。教会の人たちが心底イエスさまの十字架に罪を贖われているのならば、神さまのみ国は、パン種を入れた3サトンの粉のように、大きく膨らんでいくのだと期待しました。

 そしてもう一つは、病いを癒された女が、曲がった腰をしゃきっと伸ばして、「神さまをあがめた」ということです。「神さまをあがめる」とは、単なる礼拝上の形式的な事柄ではありません。建てられたばかりの異邦人教会が、早くも宗教的形式的礼拝に向かい始めていたのでしょうか。現代の私たちも、心しなければならない点です。喜びの油をもって神さまの前に静まり、賛美し、祈り、みことばからメッセージを聞く、そんな礼拝が期待されていると聞きたいのです。