ルカによる福音書

62 園丁の決意は

ルカ  13:1−9
イザヤ 53:7−9
T 反ローマの人たち

 イエスさまのユダヤ地方を巡る旅が続いています。それは10:38(ベタニヤ訪問)から始まったと思われますが、12章が終わったところで、2〜3ヶ月ほども経っていたでしょうか。少なくともこの時期、イエスさまがユダヤ地方を巡り歩いておられるというニュースは相当広まっており、弟子やイエスさまシンパの人たちとパリサイ人など反対派に回る人たちが、その旗色をかなり鮮明にし始めていたのではないかと思われます。そのような中で、13章の記事が始まります。「ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである」(1) ローマのユダヤ総督ピラトが引き起こしたこの事件は、エルサレム巡礼者が神殿内で犠牲を献げていた、その最中に起こったと考えられます。その直後だったのでしょうか。目撃した人たちが、わざわざイエスさまのもとに報告に来ました。その人たちが同じガリラヤ人だからということでイエスさまのところに来たとすれば、彼らは恐らく熱心党の人たちだったのでしょう。ピラトはしばしばこんな暴挙を繰り返し、そのためにやがて総督を解任されてしまうのですが、彼らはそんな権力者へのテロ行為をしながら、メシア王国を待望していたガリラヤ誕生の政治結社でした。きっと、メシアであろうと目されていたイエスさまに、反ローマ的な王国立国の期待を込めて報告に来たのではと思われます。いや、もしかしたら、この報告者はパリサイ人だったかも知れません。ピラトが熱心党をターゲットにかかる暴挙を行なった、あなたはその共犯者に等しい者ではないかと、イエスさまを告発するきっかけをねらったのかも知れないとも思うのです。なにしろ、イエスさまの弟子団には、熱心党出身のシモンがいたからです。或いは、暴力は否定しましたが、パリサイ人たちもまた、ローマに反対する点においては熱心党と同じでしたから、イエスさまの言質を取ることで、反ローマという自分たち自身を民衆にアッピールすることが出来る、ともくろんだとも言えましょう。
 いづれにしても彼らは、自分たちの目的のために、イエスさまをこの事件に巻き込みたいのです。


U 今、神さまへの思いを

 しかし、イエスさまは言われました。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」(2-3) かつてバプテスマのヨハネが彼らに悔い改めを迫りました(3:7-9)。しかし、彼らはその勧めを拒み(7:30)、自分たち中心の生き方を変えようとはしませんでした。そして、イエスさまもまた彼らに悔い改めを迫りましたが、彼らはそれを拒否しました(11:53-54)。今、イエスさまは、もう一度のチャンスを与えたのです。イエスさまの願いは、彼らが、神さまのみ心にかなうような生き方に方向転換をすることなのでしょう。神さまの目は、人の思いが神さまに向いているのかどうか、ただそのところだけを見つめているのです。もし、神さまからはずれた方にばかり向いているなら、修正しなければなりません。修正されなければ、その行き着く先は滅びでしかありません。しかし、彼ら(私たちも)が神さまを認めるか否かに関わらず、神さまの目は彼らに向いており、悔い改めなければ、滅びの道もまた確実に準備されているのです。福音への招待は、まず、罪の認識から始まるのだという、前回のメッセージがここにも繰り返されているではありませんか。神さまに向かわなければならない目が、違う方向に向いている。それは「罪」です。「罪」とはそのような「的をはずす」ことであると覚えて頂きたいのです。彼らの応答は何も記されていませんが、残念ながら、またもやイエスさまの願いを斥けてしまったのでしょうか。彼らだけでなく私たちは、自己主張ということにとても頑固なのでしょうね。

 ルカは、この記事を彼の時代の異邦人教会とその周辺の人たちに向けて書いたのでしょうが、こう見てきますと、まるで現代の私たちに焦点を合わせているかのように感じられるではありませんか。現代人は、悔い改めの必要なしと言えるほど自分たちの生き方に自信があるわけではありませんが、取り返しがつかなくなる前に、まだ事態を変えるチャンスがあると思っているのかも知れません。ずるずると引き延ばして、最悪の事態を招いてしまう。地球温暖化の様子一つを見ても、事態が深刻になっていることがお分かりでしょう。罪という人の内面の問題は、恐らく、そんな自然破壊どころの話ではないのです。今、神さまへの思いを取り戻さなくては、まさに滅びへの道だけが待っていると、この記事は、イエスさまとルカからの宣言にも聞こえてくるようです。


V 園丁の決意は

 ルカは、同じような記事をもう一つ重ねます。「また、シロアムの塔が崩れ落ちて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」(4-5)

 他の資料はありませんが、多分、当時の有名な事件だったのでしょう。この手の災害は近代化していく都市文化のもろさを非常に良く象徴しており、エルサレムはそんな問題を多く抱える町になっていました。ルカはそのエルサレム・聖なる都に、彼の時代と、そして、現代をも重ね合わせているようです。なぜなら、その町は神さまの民にとって特別なところだったからです。そうなのです。繰り返しますが、意識するか否かに関わらず、すべての人たちは、神さまがいのちを与え、手をかけて育てた民でした。それなのに、大部分の人たちは神さまなんか知らないとうそぶいています。その様子は、まるでユダヤ人そのもののようです。聖なる都エルサレムの滅亡は、その住人たちのかたくなさがもたらしたものでした。終末という時代を迎え、今、その滅亡が再現されようとしています。この災害は、訪れようとしている「滅び」に焦点を合わせているのでは、と感じられてなりません。

 そしてルカは、福音へと踏み入っていきます。たとえ話からです。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。そこでぶどう園の番人に言った。『見なさい。3年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っていたのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください』」(6-9) いちじくは植えて3年目くらいに実がなるそうですが、恐らく、その3年を過ぎてからまた3年、「今年こそは」と期待しながら実るのを待っていたのでしょう。ぶどう園になぜいちじくの木なのかは不明ですが、いちじくもその地を代表する産物でしたから、もしかしたら、神さまにとっての「特別な者(あなたであり私でもある)」を強調するためのいちじくだったのかも知れません。園丁は手入れを欠かしませんでした。実ると期待して。しかし、3年も待ってなお実らない。オーナー(神さま)から、「切り倒してしまえ」と言われるその木は、きっと、悔い改めもせず、神さまのことばを聞こうともしないまま、もはや滅びに向かうしかない者たちを指しています。そして、その木のために弁護する園丁は、もちろんイエスさまなのでしょう。「今年一年待ってください。肥やしをやってみますから」 祈りでしょうか。みことばのとりなしでしょうか。しかし、自分のことを考えても、歯がゆいくらい実らないですね。そして、園丁のことばが続きます。「それでもだめなら、切り倒してください」 このたとえは話はここで余韻を残したまま途切れますが、間もなく弟子たちは、切り倒されたのは、いちじくを愛し、手をかけて来た園丁、つまりイエスさまご自身だったことを知りました。「それでもだめなら、切り倒してください」 それは、「どうかわたしを切り倒してください」だったのですね。この福音に聞きたいではありませんか。