ルカによる福音書

61 最後の一レプタを

ルカ 12:49−59
イザヤ  53:4−6
T 地に火を投げ込むために

 前回、ルカは、イエスさま再臨に備えて目を覚ましていなさいと、注意をうながしました。それは特に、広がりつつある異邦人教会に向けられているようです。今朝は、その続き49-59を取り上げます。

 ここでもまたルカは、二つの部分に分けながら、イエスさまのことばに彼自身のメッセージを組み込んでいるようです。まず第一のフレーズからです。「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります」(49-53) 「地に火を投げ込むため」「だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることで……」と、この二つのことばにある「火」が何を指すのか、難解な箇所の一つに数えられるところです。以前、バプテスマのヨハネがメシアについて言いました。「その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。また手に箕を持って、脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます」(3:16-17)

 これもまたミステリーに満ちていますが、ヨハネはメシアの審判者である部分に強い関心を持っていたため、こういった言い回しになったものと思われます。その時代は不正や不道徳や搾取など悪が満ちていましたから、そんな時代への危機感を、人々は自分たちの痛みとして受け止めていたのでしょう。その鋭い感性は、もちろんイエスさまの中にも培われていました。しかもイエスさまは、鋭い感性に加え、ご自分をお遣わしになった方・神さまの「聖」を基準にその時代を見つめておれましたから、そんな思いから出た嘆きが、「火」という表現になったのでしょうか。実に、人の悪は、聖なるお方のその聖に照らし出され、その醜い正体が一層醜く明らかになっていくのです。イエスさまが「投げ込む」と宣言された「火」は、ヨハネのそんな嘆きへの応答だったのかも知れません。


U 主とともに警告を

 「その火が燃えていたら」とは、〈その火が人々の中に留まり、神さまのメッセンジャーとして鋭い警告を発し続けていられたら〉ということではないかと思われますが、ここから、「受けるバプテスマ」(十字架への道)を捨てようかと悩むほど、神さまからどんどん遠く離れていく人々への、イエスさまの失望と怒りが伝わって来るようです。そんな思いからでしょうか、イエスさまは「分裂をもたらすために」来られたと言われます。分裂とは私たちの悪の、罪と言い換えていいでしょうが、極みの姿でしょう。そしてその姿は、現代、今この時に、鮮明に浮かび上がって来たようです。本来、「分裂」とは対極の、「結合」の中心であるべき家庭が崩壊しています。人と人とのつながりは、もはや路傍の石どころではないのです。「だれでもよかった」と街中で、いらいら解消のために無差別殺人が行われています。また、父親を「うっとうしい」という理由で刺し殺してしまう等々……、その悪は、現代のこの21世紀に、早くも極みにまで来てしまったのではと震え上がってしまいます。「その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう」という主の嘆きは、現代にこそ聞かれなければならないのです。

 それにしても、「分裂をもたらすために来た」と言われました。その「罪の増長ぶり」は、イエスさまが来られたからなのでしょうか? そうではありません。イエスさまは、壊れた結合を回復するために、私たちのところに来られました。神さまとの結合、そして、人と人との新しい結合を回復するために……。しかし反面、イエスさまを信じることが、多くの人たちにとって躓きになっているのも事実でしょう。信仰者にとって、迫害は身近なところから始まっているのです。ルカも共鳴したマタイの記述に耳を傾けたいのですが、「兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます」(マタイ10:21-22) 強いて言うなら、日本人の耶蘇嫌いの中にも、こんな分裂らしきものが見えて来るではありませんか。

 しかし、現代の私たちは、バプテスマのヨハネやイエスさまのような鋭い感性をもち、その聖なる「火」に照らされて、今、自分たちのやっていることの是非を神さまから問われているのだと、震えおののきつつ、魂の奥底で神さまのことばを聞いていかなければなりません。同時に私たちは、主の代理人として、「それは(あなたのやっていることは)悪である」と鋭く警告してやまない声を、発信し続けなければならないのだと改めて思わされます。弟子たちの時代と同様に、教会はその責任を負っているのではないでしょうか。


V 最後の一レプタを

 しかし、火は滅び(断罪)を意味すると同時に、また、きよめをも意味しています。「その火が燃えていたら」と願いながらも、イエスさまは「受けるべきバプテスマ」への道を選び通されました。実にイエスさまは、滅ぶべき者たちのために、十字架におかかりになられたのです。その罪をきよめる(赦す)ために。後半のもう一つのフレーズは、そのことをはっきりさせているようです。

 これは群衆に語られたものです。まず前半からです。「あなたがたは、西に雲が起こるのを見るとすぐに、『にわか雨が来るぞ』と言い、事実そのとおりになります。また、南風が吹き出すと、『暑い日になるぞ』と言い、事実そのとおりになります。偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか」(54-56) パレスチナでは西に海がありますので、雨はそちらからやって来ます。また、南風は荒野からの熱風を伴うので、炎暑をもたらします。そんな自分たちの利益を左右する事柄については、民衆は非常に賢かったのです。にもかかわらず、「今のこの時代を見分けることができない」と言われます。「時代」と言われました。繰り返しますが、イエスさまは時代の中心・時の中心なのです。その中心で、イエスさまは神さまご自身として語り続けておられるのです。しかし、彼らは聞こうとはせず、神さまを見失って、自分たちがどこに立っているのか分からなくなっているようです。「時代」とは、彼らそのものを指している。そして、そのように鋭く非難される彼らの生き方は、現代の私たちにも重なって来るのです。そのことを見分ける目は、神さまを信じる生き方によると覚えたいですね。

 このように見てきますと、ルカは、堰を切ったように、徹底的にイエスさまを見つめようとはしない人たちの問題、「罪」を暴き立てているようです。まるで、バプテスマのヨハネの目にでもなったかのように……。恐らく、預言者たち(特にイザヤ)以来の伝統なのでしょうが、福音への招待は、まず、罪の認識から始まるのだという意識が、ルカの中にもあったのでしょう。そして彼は、福音そのものに踏み込んでいきます。「また、なぜ自分から進んで、何が正しいかを判断しないのですか。あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは、途中でも、熱心に彼と和解するよう努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行きます。裁判官は執行人に引き渡し、執行人は牢に投げ込んでしまいます。あなたに言います。最後の一レプタを支払うまでは、そこから出られないのです」(57-59) このたとえは、正しいことを判断される裁判官・神さまが「私たちの罪」に介入する前に、悔い改めを勧めているようです。「最後の一レプタを支払う」判決は、決して軽い罰金刑などではなく、すべてをもって償った後に、まだ足りないとして要求される「私たちのいのち」なのです。その「いのち」を、イエスさまは十字架でご自分をもって贖ってくださったのです。最後の一レプタを、私たちのために、イエスさまが支払ってくださいました。この福音を聞いて頂きたいと願います。