ルカによる福音書

60 腰に帯びして

ルカ 12:35−48
   イザヤ 4:2-6 5:21-25
T イエスさまのたとえ話は

 神さまを求める。そのとき、神さまは、私たちの一切をご自分のものとして、新しいいのち−生き方−のためにお働きくださる。前回の二つのフレーズは、イエスさまの弟子たちの、生き方の方向づけであろうと聞きました。しかし、まだ続きがあります。今朝のテキストです。

 「腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、いつでもそのようであることを見られるなら、そのしもべたちは幸いです。このことを知っておきなさい。もしも家の主人が、どろぼうの来る時間を知っていたなら、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのですから」(35-40) 前回のフレーズが第一、第二と分けられていたように、今回もルカは、二つの部分に分けて読者の理解を深めようとしています。まず、第一ステージからです。これはマタイ24章にもあるイエスさまのお話ですが、マタイ、ルカともに、イエスさまがもう一度おいでになるという終末時の再臨をテーマにしており、その時に向けて、弟子たる者はどう備えていかなければならないのか、それが中心主題になっています。しかし、ここでも、ルカ独自のメッセージが込められているようです。「たとえ」の本来の目的は、中心主題の補佐であろうと思うのですが、ここでは、「たとえ」そのものの中に中心主題が隠されていると感じます。聞いていきましょう。

 ところでこのたとえ話は、何かバラバラなという印象を受けます。主人の行き先は婚礼であったとしますが、それが、突如、どろぼうが押し入る話になり、そして、それが主の再臨に結びつけられています。そもそも、発端は「腰に帯を締め、あかりをともしていなさい」と始まるのですが、どうも、イエスさまが別々のところでお話になったものを、ルカが編集の段階で無理矢理くっつけたという印象が強いのです。果たしてこれは、脈絡のないものの寄せ集めなのでしょうか。


U 王たるお方が

 「腰に帯びを締める」というところから考えました。ユダヤ人の上着は大きなマントのように、一枚布で首から裾までゆったりと覆ってしまうものでしたから、帯などないのが普通ですが、日常はそれでいいとしても、いかにも活動的ではありません。活発な動きをする時には、帯が必要になります。その最高舞台は、戦闘時ではなかったでしょうか。剣を吊すためにも帯は必要ですし、そう考えますと、いろいろと想像(空想?)がふくらんできます。この主人は王なのでしょう。婚礼は恐らく同盟国からの招きに応じたものであり、どろぼう(口語訳は盗賊)は隙を窺うこの王の敵であり、しもべたちは兵士であり……、王の留守中、しもべたちは武装して警護に当たっています。それが「腰に帯を締め、あかりをともしていなさい」という、命令に忠実な彼らの服務態度ではなかったかと思われます。そのような小民族や部族の都市国家は、当時至る所にありました。町と呼ばれるところのほとんどが、柵で囲まれた一つの小国に近いものであったと言えそうです。エルサレムやベツレヘムもそうですし、エリコなど、9000年前という世界最古に属する都市国家の遺跡が発掘されています。そのように見てきますと、このテキストの何の脈絡もないかに見える記事の一つ一つが、見事につながってくるではありませんか。

 小国といえども、王ならではの婚礼に伴う諸儀式があるでしょう。古代社会の婚礼は何日もかけて行なうのが普通でした。王たちの親睦も兼ね、同盟国会議なども……。それだけに、すべてが終わり、大急ぎで帰国の途に着くのは、夜を日に継いで、真夜中や夜明けの帰城もあったのではないでしょうか。その留守を守り、かつ、王の帰国を知ってすぐに開門し、王を出迎えるしもべたち。そんなしもべたちの忠勤ぶりを喜んだのでしょうか。イエスさまは、まるでご自分がその主人でもあるかのように、「あなたがたに告げます」と言われました。「主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます」 一国一城の主としては、あり得ないことでしょう。しかし、イエスさまはそうなさったのです。受難前夜、最後の晩餐の席で、ご自身が仕えるようにしもべとなって、弟子たちの足を洗われました。そればかりか、ご自分のいのちさえも投げ出してくださった、イエスさまの姿がここに重なってきます。この王は、イエスさまご自身でした。


V 腰に帯びして

 このたとえは、「あなたがたは、神の国を求めなさい」(31)と言われた、その続きとして語られたものです。「これは、イエスさまの再臨をテーマにしており、その時に向けて、弟子たる者はどう備えていかなければならないのか、それが中心主題になっている」と触れましたが、ある注解者は、「弟子たちにとって、神の国は、イエスが時満ちて彼を待っている者たちにご自身を現わした後に、完全に到来する」と言っています。きっとその通りなのでしょう。これは、王としておいでになるお方からの祝福なのです。主の十字架に贖われ、腰に帯びして主の再臨を待ち望む者たちは、神さまの御国に、このように迎えられるのではないでしょうか。私など、細めに開けられた御国の裏門からおずおずと入れていただくしかないと思うのですが。しかし、堂々と開かれた表門に主が待っておられ、このような歓迎を受けるとしたら、どれほどの光栄でしょう。

 しかし、その光栄に与るためには、このたとえの第二ステージで語られる、落とし穴をクリアしなければなりません。弟子たちにはまだ、その光栄が飲み込めていないようでした。ペテロが質問します。「主よ。このたとえは私たちのためにお話してくださるのですか。それともみなのためですか」(41) 周りを大勢の群衆に取り囲まれ、しかも、その中のひとりが遺産相続の相談など持ちかけたりしたものですから、どうも弟子たちは、イエスさまはきっと群衆に話されているのだろうと、自分たちを埒外に置いていたようです。ですからこのお話は、弟子たちにとっても極めて抽象的なものにしか聞こえていなかったのです。同じことが、現代の私たちにもあります。聖書は決して「一般的福音」を語っているのではなく、「私(あなた)」に向かって語りかけているのだ、と聞かなければなりません。遅ればせながら、弟子たちもようやくそのことに気がつき始めたのでしょう。イエスさまが言われました。

 「主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な思慮深い管理人とは、いったいだれでしょう。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。わたしは真実をあなたがたに告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。ところが、もし、そのしもべが、『主人の帰りはまだだ』と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、しもべの主人は、思いがけない日の思いがけない時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに会わせるに違いありません。主人の心を知りながら、その思いどおりに用意にせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は多く要求されます」(42-48) 王たるお方は、祝福する恵みと同時に、裁く権威をも持っておられます。どちらを選択するのか、それは私たちにかかっています。悪いしもべへの断罪は、パリサイ人たちと同じですが、ルカは、自分をも含めた初期教会の信仰者たちが、ともすれば彼らと同じ過ちを犯すことになる、と警告しているのでしょう。腰に帯びして、私たちもその警告を心して聞かなければなりません。