ルカによる福音書

59 新しいいのちを紡がれて

ルカ 12:22−34
詩篇   23:1−6
T 倉を満たすことばかりに

 前回、イエスさまの話の腰を折るかのように、ひとりの人がイエスさまに相談を持ちかけ、イエスさまがそれに答えられた記事を見ました。その答えは、「いのちは神さまに属する」ものであり、その中心には、十字架にかかられたイエスさまが座っておられるということでしたが、それはまるで、「あなたはこれをどう聞くか」と問いかけているようです。群衆に答える形をとってはいましたが、恐らくこれは、弟子たちへの話の続きでした。彼らは間もなく、イエスさまの話に出て来たような、「倉を満たすことばかりに夢中になっている」人たちのところに遣わされ、そこでイエスさまの教会を建て上げなければならないのです。彼らにはもっともっと教えておきたいことがある。それは、今、ここで教会の広がりに関わっている、ルカに共通の意識と言えましょう。ですから、更にその続きが語られます。「それから弟子たちに言われた」(22)と、今朝のテキスト12:22-34です。

 「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物よりもたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。烏(カラス)のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥(トリ)よりも、はるかにすぐれたものです。あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことまで心配するのですか。ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、この花の一つほどに着飾ってはいませんでした。しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたに必要であることを知っておられます。何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます」(22-31) いうまでもなくこれは、マタイの山上の垂訓にあるものですが、どうも、ルカはそれを資料として読み、わずかながら編集してこの部分に挿入したようです。彼なりの意図があったのでしょう。


U 主への信仰告白を

 記事としては、ルカとマタイに違いはほとんどありませんので、ここからルカ独自のメッセージをさぐることは、或いはこじつけに終わることかも知れません。が、それでも聞きたいのです。小さな違いでしょうが、相違点が二つあります。一つは「烏(カラス)のことを考えてみなさい」というところです。鳥(トリ)ではなく、烏(カラス)なんですね。二つ目の「あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです」では「トリ」になっていますが、それも「カラス」を指していると見るのが妥当でしょう。ヨブ記にはこんなことばも記されています。「烏(カラス)の子が神に向かって鳴き叫び、食物がなくてさまようとき、烏(カラス)にえさを備えるのはだれか」(38:41) しかし、このルカの二つ前のフレーズに、「5羽の雀は2アサリオンで売られている」(11:6)とあります。それは貧しい人たちの神殿での献げもので、その「トリ」は小さな生き物を指す筈でした。それをここで、あえて「カラス」に変えたのは、烏(カラス)が雀以下の存在であると強調しているのではと思われるからです。イスラエルで見かけたカラスは茶色で、見慣れていない故もあってか、汚らしく感じられたものです。ルカの目にもそう映ったのでしょうか。もしかしたら、神殿への献げ物の雀に向こうを張って言われる「カラス」には、神さまを知らない異邦人という比喩が込められているのかも知れません。そんな者たちをも養ってくださる神さまが、イエスさまの「弟子となったあなた」を気にかけてくださらないはずがない。イエスさまが、ご自分のいのちをもって贖ってくださったあなたたちなのですから。

 もう一つの違いは、「こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことまで心配するのですか」(26)という、マタイにない挿入句を入れていることです。その前提に、「あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」(25)とあるのですが、その「いのち」は、口語訳のように「寿命」とするのがいいでしょう。これは、「生命の長さ」と同時に「体の大きさ」をも含み、永井訳などは「背丈」と訳していますが、それは「こんな小さなことさえできないで」に引っ張られたためと思われます。その「小さいこと」を、恐らく、寿命を延ばすことにかけているのです。なぜなら、寿命を延ばすことを「小さい」と言い切れるのは、唯一、私たちのいのちを手中にしておられる方だけなのですから。ルカは、イエスさまをそのお方だと指し示したのです。彼の信仰告白と聞くことが出来るでしょう。


V 新しいいのちを紡がれて

 ここでもルカは、この箇所の中心主題を、先の2つのフレーズ(12:1-12、13-21)に続いて、「いのち」ということに的を絞っているようです。「いのちは神さまに属する」のです。もちろんその根には、イエスさまの十字架が隠されているのですが。イエスさまの福音が、彼の最大の関心事なのです。

 その福音が、第一フレーズの最後のところから、表立って登場してきます。「何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます」(31) ここに、イエスさまの十字架に贖われた新しい「いのち」は、「神さまの御国」に行き着くと宣言されていることにお気づきでしょう。そして、神さまを求めることは、神さまとともに歩む生き方を指すことに他ならないのです。しかし、ここでいくら声を大にして「そんな生き方をしよう」と叫んでも、具体性に欠けると言われそうですので、「これらの物は、それに加えて与えられる」を先に、順序を逆に考えてみましょう。「何を食べようか」「何を着ようか」という「これらの物」、つまり、目の前の必要から始めてみたらどうでしょうか。それを神さまに申し上げるのです。神さまに届く祈りこそ、私たちが神さまとともに歩む、最も具体的なことではないでしょうか。混迷を深める現代に、私たちは不安や悩みなど、数え切れないほどたくさん抱えていると思うのですが、そのひとつひとつを神さまに申し上げるのです。きっと神さまが、何とかしてくださいます。もちろん、神さまに申し上げるその時、あなたの信仰が問われるのですが……。

 それが、「小さな群れよ。恐れることはありません」(32)と続く、第二フレーズの中心主題になっていきます。弟子たちは間もなく、教会のために苦労することになると申し上げました。現代の伝道者にも苦労はあるのですが、きっと彼らは、それとは比較にならないほどの困難を通って来たことでしょう。しかし、だからこそ、「あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです」(32)との、約束を覚える信仰が求められました。その信仰は、自己中心ではあり得ません。「持ち物を売って、施しをしなさい。自分のためには古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです」(33-34)と、ルカはこの宝を、自分のために財産を蓄えたあの富農に比較対照させています。神さまを見失うと、その宝も見えなくなるということのようです。反対に、神さまを見つめ続けるなら、大切なものがはっきりしてくるのではないでしょうか。人によって様々であろうはと思いますが、信仰を生きる中で、その一番大切なものに出会いたいですね。それが、新しい「いのち」を紡がれた私たちの生き方だろうと思うのです。