ルカによる福音書

58 新しいいのちに

ルカ  12:13−21
イザヤ 53:10−12
T 現代の価値観に

 「群衆の中のひとりが、『先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください』と言った。すると彼に言われた。『いったい、だれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか』」(13-14) 12章の最初に「おびただしい数の群衆が集まって来た」とあり、その群衆の中で、イエスさまは弟子たちに向けて話されました(2-12)。ところが、弟子たちがそれに反応する間もおかず、突然、群衆の中からひとりの人がこんな相談を持ちかけました。まるで、イエスさまのお話が途切れるのを待っていたかのように。ところで、奇妙なことですが、群衆も当然聞いているその中で、イエスさまのお話は、やがて通ろうとする迫害と殉教に弟子たちがいかに立ち向かうべきかといった、群衆を全く意識していないかのような内容でした。そして群衆もまた、イエスさまのお話など、まったく聞いていなかったようです。この人の依頼は、聞いていたお話とは全く関係のないものでした。もしかしたら、イエスさまの評判を聞いて、遭遇しているトラブルの相談に乗ってもらおうと、最初からそれだけのためにやって来たのではと勘ぐりたくなります。この人は、どうも遺産のうちの、彼の相続分を兄弟に取られたようですが、ユダヤでは、そういう相談事は高名なラビのところに持ち込むのが普通だったそうですから、イエスさまを高名なラビと見ての依頼と思われます。遺産相続という財産の問題ですので、相談者は金持ちの、エルサレムもしくは近辺の地主の息子らしいと想像されます。今回のユダヤ地方巡回でイエスさまは、恐らく、エルサレムにまで何度も足を伸ばしていたと思われます。イエスさまに相談を持ちかけたその人は、そこに集まった人たちの代弁者のように扱われていますが、彼は、神さまに属する筈の「いのち」を、財産を殖やすことで手に入れられるとでも考えているようです。パリサイ人や律法学者の偽善にいい加減うんざりしていたのに、民衆までもが、現実的な損得勘定だけで物事を判断しようとしているのです。まるで、現代人の価値観そのものではありませんか。

 イエスさまは彼に、「わたしはあなたがたの裁判官でも調停者でもない」と言われました。調停者は〈遺産分配人〉という法律用語ですが、ガリラヤ地方では、あれほど丁寧に熱意を込めて民衆に接しておられたイエスさまが、ここでは、まるで人が違ったように、厳しいことを言っておられます。もしかしたら、エルサレム界隈の民衆の信仰者としてのレベルの低さに、失望していたのかも知れません。現代の私たちも、同じようにイエスさまを失望させているかもしれないと、考えさせられてしまいます。


U 神さまを中心に

 しかしイエスさまは、気を取り直し、厳しいながらも、彼らが変わるよう期待を込めながら、彼らを教え始められました。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです」(15) 貪欲と言われました。遺産相続などという問題は、貧しい人たちには縁のない事でしたから、イエスさまの目には、持っている人たちがもっと金持ちになりたいというものでしかないと映ったのでしょう。「いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではない」と、それは、全世界の富をその手に治めることの出来るお方だからこそ、言い得ることばではありませんか。今、サタンはそれを自由にしているようですが、本来それは、決してサタンが所有するものではないのです。

 私たちは、与えられたもので満足し、感謝することを覚えなければなりません。だれに感謝するのですか? 食べ物を与え、いのちを守ってくださるお方・神さまにです。この金持ちは、そのお方のことを忘れてしまっています。「神さまを中心に」、それがユダヤ人の生き方の基本だったはずなのに……。その原則を思い出して欲しいと願い、イエスさまは一つのたとえを話されました。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです」(16-21)


V 新しいいのちに

 このたとえは、その時代に、そんな生き方と死に方をした実例も多く、それがイエスさまの耳に入っていたのかも知れません。しかし、旧約外典「ベン・シラの知恵」(11:18-19)にあるものと良く似ていますので、そこから借用したのかとも思われます。紹介しましょう。「(金の出し入れに)用心し、切り詰めることによって富を積む者もあるが、その労働に対する報いはこれである。やれやれこれで安心、自分の財産で食っていける身分になった、と言ってみても、それがいつまで続くのやら知りようもなく、死んだら他人の手に渡るのである」 きっと、両方なのでしょう。イエスさまは旧約聖書ばかりか外典にも通じて(貧しい庶民階級に属するイエスさまが、と驚きですが)おられ、神さまのことばを立体的、多角的に見ることが、その思考の中心になっていたと思われます。聖書のことは聖書だけにというのも大切ですが、聖書以外の多角的な知的訓練も、聖書を読む上で欠かすことができないと覚えたいですね。多角的な訓練は、聖書の読み方を深めていくものです。その訓練を自分に課していく、それが、求道者も信徒も教会離れをしているという、現代教会の危機的状況を回避することにつながっていくのではないでしょうか。

 ともあれ、このたとえ話を心に留めてみますと、さしずめ、現代日本のグルメ志向ぶりなど、つい、世界中には満足に食べられない人たちも多いのにと苦々しく感じられてしまいますし、一部の投資家によって原油がとてつもなく高騰、庶民のふところを圧迫しているなど、どこかが狂っているとしか言いようがありません。満ちあふれる穀倉以外のものに目を向けようとはしない現代、現代の日本人が、富んではいるが貧しい精神(こころ)しか持ち合わせていない人たち、というレッテルを張られていることをご存じでしょうか。多発する若い人たちの暴走、その根がいろいろと取り沙汰されていますが、若い人ばかりではなく、年輩者にも欠けているそれは、「殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を」(12:5)恐れ敬うことなのです。

 いのちは神さまの領域であると、このことを現代人は忘れてしまったのではないでしょうか。ルカが、前の記事(12:1-12)とは何の脈絡もないように見えるこの記事をここに採用したのも、この「いのちは神さまの領域」という信仰者の最も基本的な理解を、構築途上の異邦人教会に覚えて欲しいと思ったためではなかったかと思われてなりません。恐らく、アンテオケに始まったギリシャ人を中心とする新しい教会は、現代に良く似た、実利にさとい一面を持っていたのでしょう。その利己的というこだわりを捨てなければ、神さまのことが分かって来ないのだと、ルカは、ギリシャ語圏に建てられた教会と世界の果てまでも建てられていく教会の人たちに、大切なもののランク付けの再考をうながした。そんな彼のメッセージが聞こえて来るようです。その「いのち」をキイワードにして見るなら、前の記事とこの記事とが見事につながってきます。その「いのち」のために、イエスさまは今、十字架への道を歩んでおられるのです。イザヤ書のことばをお聞きください。「もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる」(53:10) イエスさまに贖われた私たちの新しいいのちは、イエスさまのいのちを頂いたと言えなくもありません。その新しいいのちを、主に喜ばれる新しい歩みにつなげていこうではありませんか。