ルカによる福音書

57 このお方とともに

ルカ 12:1−12
イザヤ 43:1−7
T 偽善の罠が

 パリサイ人がイエスさまを招いた食事の席(11:37-)で、イエスさまはパリサイ人たちを叱責されました。彼らの反論は何も記されていませんが、激しいやりとりがあったものと想像されます。イエスさまが出て行かれると、パリサイ人たちは、激しい憎しみからイエスさまをつけ狙い始めます。十字架の出来事が具体化し始めた第一歩と言えましょう。その間に(新共同訳)、おびただしい数の群衆が集まって来て、「互いに足を踏み合うほどに」(12:1)なったと、そういう状況の中でのことです。

 イエスさまは、まず弟子たちに対して話し出されました。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです」(1) パン種というのは、パンを膨らませるために保存していた発酵中の練り粉(前日パンを作った時に一部残しておいた練り粉)のことです。イエスさまは、これをパリサイ人の《不安と過激な扇動を生み出す偽善》(詳訳聖書)にたとえました。ユダヤ人は、ほんの少量の練り粉が家族全員の一日分のパンを膨らますことを良く知っていましたから、このたとえは容易に理解出来たのでしょう。11章にあるイエスさまの叱責も併せながらこのように聞いていきますと、モーセの教えだとばかり思っていた細かな規定が、実は、パリサイ人や律法学者のエゴーによるものであり、日に日に膨らんでいく偽善のかたまりであることが、少なくとも弟子たちには分かって来たようです。「おおいかぶされているもので、現わされないものはなく、かくされているもので、知られずに済むものはありません。ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます」(2-3) 前半はパリサイ人たちの偽善を指しているのでしょうが、後半は、主語が「あなたがた」になっていますので、弟子たちへの警告と聞こえます。彼らがこれから建て上げていこうとする教会においてさえ、パリサイ人たちと同じ罠が待ち構えているのだと、現代の私たちをも含め、聞いていかなければならないことではないでしょうか。


U あなたはすぐれた者

 暗やみでひそひそと交わされるたくらみ。談合とか密室政治とか言われていることを持ち出すまでもなく、どこの世界にもあることでしょうが、教会も例外ではありません。それは、聞かれたら不都合な人たちを想定してのこと。人しか見ていないのです。しかし、イエスさまの教会には、礼拝など教会に集って来る人たち以上に、見つめるべきお方がいらっしゃるのです。

 「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です」(4-7) アサリオンは当時のユダヤで通用していたローマ青銅貨(約5円)ですが、その下にはまだコドラント(約1円25銭)、レプタ(約65銭)とありますので、庶民感覚では一番通用価値のある貨幣で、イスカリオテのユダが管理していたイエスさまのお財布にも、この青銅貨が一番多く入っていたのではと思われます。弟子たちの一人一人が神さまの前に価値ある存在であることを、このように身近なもので教えられたのです。弟子たちには、もちろん、神さまがということもですが、何よりもイエスさまが自分たちを大切にしていてくださると、しっかり伝わったのではないでしょうか。

 それにしてもイエスさまは、この弟子たちが、やがて殉教という苦難の道を歩むことになると言っておられるようです。すでにイエスさまの目は、ご自分の十字架という出来事を越え、その後にやって来る教会の歩みに向けられていました。初期教会はまさに迫害と殉教の中に建てられていくのですが、それは、ルカの時代に一層現実味を帯びて来ます。ここをそのように聞いていきますと、「あなたがたはすぐれた者です」とは、ルカが最も聞きたかったことではなかったかと感じられてなりません。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)とある、主の慰めが沸々と浮かび上がって来るではありませんか。


V このお方とともに

 続きを聞いてみましょう。「そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いの前で知らないと言われます。たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。しかし、聖霊をけがす者は赦されません」(8-10)

 イエスさまを認める。これは、イエスさまへの信仰の告白を言っています。そしてその信仰者を、イエスさまもまた認めると言われるのです。「神の御使いたちの前で」とあるのは、神さまが御使いたちを従えて裁きの座に着かれる時のことを指しています。その場には、「罪あり」として告訴された私たちが引き出され、告訴した者・サタンが、私たちのすべての罪状を明らかにしようと待ち構えています。しかしそこには、イエスさまも弁護人として席に着き、私たちのために弁明しようと立っておられるのです。「認める」とは、「彼はわたしに属する者である」「彼のすべての罪をわたしが十字架に贖ったゆえに、彼には罪はない」という宣言なのです。裁判官たる神さまが、愛し子であるお方の、その弁護を受け入れてくださることは言うまでもありません。そして、イエスさまの弁護のゆえに、私たちを子としてお取り扱いくださるのです。何という光栄ではありませんか。ただ、私たちの信仰告白が、迫害と殉教の場面においても問われるのだと、覚えておかなくてはなりません。「人の前で」には、その意味が込められているのです。それほどの意志と覚悟を込めての信仰告白に、「わたしの友」という望外な呼びかけがされるのです。その呼びかけに、誠実に応えたいではありませんか。

 しかしイエスさまを認めない者には、「わたしはあなたを知らない」と言われるのです。これは、もはや覆ることのない決定と聞かなければなりません。終末のときに行われる神さまの裁きの座において。そうはならないための警告でしょうか、「聖霊をけがす者は赦されない」と言われます。これは恐らく、信仰告白をした者がその信仰を否定し、イエスさまを知らないと、他の生き方に鞍替えしてしまうことを言ったものと思われますが、そこにも、「迫害と殉教のときに」という、ぎりぎりの状況が顔をのぞかせています。恐らく、ルカの時代にそんな状況が見え始めていたのでしょう。「人の子をそしることばを使う者(恐らく一般民衆)があっても赦される」と、彼らの赦しの可能性の言及は、かえって、信仰告白をした者たちの立ち方を問いかけて来ているようです。

 そんな私たちの弱さを、十字架に苦しまれたイエスさまは十分に承知しておられました。これは、私たちを切り捨てるためにではなく、慰めとして語られたのです。「また、人々があなたがたを、会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです」(11-12) イエスさまは、近い将来、こういった出来事が必ず起こると見通しておられたのです。それは弟子たちの時代だけのことではありません。もはや終末の時代を迎えた現代の教会こそ、覚悟しつつ聞いていかなければならないことでしょう。しかしそこには、助け主・聖霊のご介入があると言われます。ここに、現代という時代になお働き続け給う、主の御力が感じられるではありませんか。信仰者として、十字架とよみがえりの−福音の証人として、このお方とともに信仰の歩みを続けていきたいと願おうではありませんか。