ルカによる福音書

56 時の中心を継承して

ルカ 11:37−54
詩篇 51:10−19
T 食事に招かれて

 イエスさまは、エルサレムに行かれる前、ユダヤ地方の町々村々を巡回しています。それは弟子たちの訓練のためでした。その訓練のプロローグで、「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです」(10:42)と言われましたが、その大切なこと(必要なこと)を弟子たちに教えようと、巡回は数ヶ月に渡りました。ルカはその期間を大切にしたのでしょう。そのために11〜19章という多くのページを割いています。その教えの第一は祈りに関するもの(11:1-13)であり、第二はパリサイ人との論争であると前置きをしての、「ベルゼブル問答」(14-28)と「天からのしるし」(29-36)の記事でした。なのに、ここには、パリサイ人や律法学者たちは隠されていて表には出てきていません。ルカは彼らを超えて現代までの時代を見ながら、神さまを見失うなら、それは「悪い時代」になるのだと言ってきましたが、その悪い時代を代表させてなのでしょうか。今朝のテキストには、パリサイ人と律法学者が登場して来ます。

 「イエスが話し終えられると、ひとりのパリサイ人が、食事をいっしょにしてください、とお願いした。そこでイエスは家にはいって、食卓に着かれた。そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て、驚いた」(37-38)とあります。イエスさまが食事に招かれるのは、以前から珍しいことではありませんでした。そして今は、町々村々を巡回されているところでしたから、なおさらのこと、病いを癒されたりお話を聞いた人たちはもちろん、評判を聞いた人たちも、こぞってイエスさまを自分の家に招きたいと願ったことでしょう。このパリサイ人もお話を聞いていたひとりでした。イスラエルには昔から預言者を食事に招くという伝統があり、それを受け継いでのイエスさま招待と思われます。ところがこのパリサイ人は、客をもてなすことよりも、「きよめの洗い」に拘っています。これは、エルサレムの長老からの通達という形で宗教儀礼に加えられたもので、後期ユダヤ教の、比較的新しい儀式でした。律法厳守はパリサイ人の表看板です。本来は(聖書にある)モーセの律法を厳守するというものですが、いつの間にか、聖書の拡大解釈として、さまざまな通達が「律法」に組み入れられていました。そして、そんな儀礼でも、ほとんどのユダヤ人たちは懸命に守ろうとしていましたから、イエスさまが手を洗わないのを見て、すこぶる奇異に感じたわけです。


U 神さまご自身であるお方から

 ところがイエスさまは言われます。マタイではパリサイ人と律法学者への叱責は一緒になっているのですが、ルカはこれを区別しています。イエスさまへの非難はパリサイ人から始まりましたから、歴史的経過という点で、恐らくルカの記事通りなのでしょう。まず、パリサイ人への叱責から見ていきます。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷(はっか)や芸香(うんこう)やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行なうべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならぬが。あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気がつかない」(39-44新共同訳)

 分かりやすいと思われますので新共同訳で紹介しましたが、「不幸だ」というところは「わざわいである」とした口語訳のほうがいいでしょう。それは、「幸いとわざわいの宣言」と言われる、モーセの決別説教(申命記27:11-26)に基づいて言われたのであろうと思われるからです。しかし、ここには「幸いなるかな」という祝福の部分がありませんから、これは、彼らを「わざわい」なる者たちだとする宣言と聞かなければなりません。きっと、イエスさまは、彼らが崇拝してやまない筈のモーセから叱責されているのだと、そのことをはっきりさせるために、このようなスタイルをとられたのではと思われます。

 それにしても、イエスさまにしては珍しく攻撃的です。なぜこんなにも攻撃的なのか、二つのことが考えられるようです。その一つ目は、長老という権威からの「通達」を重んじるのに、神さまをないがしろにしている彼らパリサイ人たちへの、これは、神さまご自身であられる方からの叱責なのです。それがモーセの「わざわいなるかな」という宣言の形を用いた第一の理由と思われます。


V 時の中心を継承して

 もう一つのことは、彼らが自分たちだけの利益しか考えておらず、民衆を同じ「わざわいなる者」に仕立てていると、その責任を問うものではないかということです。ルカが切り離した律法学者への叱責の記事から見てみましょう。ある律法の専門家が、「先生。そのようなことを言われることは、私たちをも侮辱することです」と反論したことに、イエスさまが答えられたものです。「あなたがた律法の専門家たちも忌まわしいものだ。あなたがたは、人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない」(46) 権威ある偉い先生という民衆の盲従の上にあぐらをかいて、さまざまな「通達」を乱発し続け、その通達によって肥え太った彼らの様子が目に浮かぶではありませんか。パリサイ人への叱責のところで言われた「薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが……」とあるのは、そのほとんどを小作人に作らせて自分のふところは何も痛まないのに、いかにも自分は神さまに忠実な者であるとして、外面ばかりを良く見せたがる彼らの本質を突いています。パリサイ人も律法学者も一つ穴の狢なのでしょう。「器(自分の)の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」とは、民衆(特に貧しい人たち)を食い物にしていることに対してなのでしょうか。イエスさまの目は、ずっと、貧しい人たちに向いているようです。

 恐らくルカは、教会の指導者たちにも、彼らの生き方に重なる誘惑があると警鐘を鳴らしているのでしょう。中世の西方教会がそうでした。現代の教会に当てはまらなければいいのですが……。
 今、イエスさまは最後の弟子訓練に力を注いでいるところです。12使徒ばかりではなく、ペレヤやユダヤ近辺の町や村から遣わされて行った70人の新しい弟子たちも、間もなく、イエスさまの教会のために立ち働くようになります。続くことばは、律法学者への叱責というよりも、弟子たちの辿る道の険しさを教えたものと言えましょう。「忌まわしいことだ。あなたがたは、預言者たちの墓を建てている。しかし、あなたがたの先祖は預言者たちを殺したのです。このようにして、あなたがたは、自分の先祖のしたことの証人となり、それを認めています。なぜなら、あなたがたの先祖が預言者たちを殺し、あなたがたがその墓を建てているからです。だから、神の知恵もこう言いました。『わたしは預言者たちや使徒たちを彼らに遣わすが、彼らはそのうちのある者を殺し、ある者を迫害する。それは、アベルの血から、祭壇と神の家との間で殺されたザカリヤの血に至るまでの、世の初めから流されたすべての預言者の血の責任を、この時代が問われるためである。そうだ、わたしは言う。この時代は、その責任を問われる。』忌まわしいものだ。律法の専門家たち。あなたがたは、知識のかぎを持ち去り、自分もはいらず、はいろうとする人々をも妨げたのです」(47-52)

 「この時代は責任を問われる」とは、まさに時の中心たるお方ならではの洞察ではありませんか。きっと、弟子たちにも、それほどの洞察力を求めておられるのでしょう。なぜなら、イエスさまの代理人として、彼らもまた時の中心を歩むことになるからです。そしてそのことは、現代の私たちにも求められていると聞かなければなりません。しかし、ユダヤ教という宗教の枠内に閉じこもった律法学者たちは、その世界を垣間見ることさえ出来ませんでした。やがて彼らはイエスさまを十字架に追い詰めていくのです。