ルカによる福音書

55 輝きある歩みを

ルカ  11:29−36
イザヤ 61:19−22
T 悪い時代に

 前回、イエスさまがおしの悪霊を追い出されたことから始まった、「ベルゼブル問答」を見ました。それは、パリサイ人を中心とする人たちが、悪霊のかしら「ベルゼブル」と結託しているとイエスさまを非難するものでした。その時、「また、イエスをためそうとして、彼に天からのしるしを求める者もいた」(16)とありましたが、それは、イエスさまにメシアとしての証拠を示せと迫るものでした。「断じてメシアではない」との悪意を込めて。今朝のテキストの最初は、その「しるし」について、イエスさまの答えともいうべきところです。

 「さて、群衆の数がふえて来ると、イエスは話し始められた」(29)、と始まります。マタイによりますと(12:38-)、「しるしを」とはパリサイ人から出た問いかけでしたが、前回と同じようにルカは、その問いかけが群衆から出たと、ここでも群衆を前面に押し出しています。恐らく、イエスさまを取り囲んだ人たちには、自分たちはイスラエルの中心・エルサレムを含めたユダヤ地方の者であり、都会人(中心階級)であるとの優越意識があったようです。そして、パリサイ人や律法学者や一部の指導者だけではなく、一般民衆もそんな意識を持っていたと思われます。ガリラヤとかペレヤなどは田舎者であり、彼らはただの脇役でしかないと、それは、都会中心と言われる現代にも似ているではありませんか。自分たち(異邦人教会)の時代も含めて、ルカはそんな偏った時代を見ているのでしょう。「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。というのは、ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、彼らを罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです」(29-32)


U みことばに聞く信仰を

 「ヨナのしるし」は、大きな魚に飲み込まれた預言者ヨナが、三日三晩経って、再び地上に生還するというものですが(ヨナ書)、これはイエスさまの十字架の死とよみがえりを予表するものでした。そして、そのしるし(十字架)は「この時代のため」とありますが、「この時代」とは「悪い時代」を指しているのでしょう。残念ながら現代という時代も、神さまから遠く離れていると言わざるを得ませんし、初期教会にもきっとそんな傾向が生じていたのでしょう。神さまを見失うと、人は自己中心に陥り、他の人たちを否定し始め、ついには犯罪に走るようになる。そして、その根っこは教会にも?、といったら言い過ぎでしょうか。「洗礼を受けたから」「教会に行っているから」神さまに近いと、安心できるわけではありません。もっともっと中心的なところで、「おまえは本当に神さまと和解しているのか」と自分自身に深く問いかけるそのところで、神さまに近く歩んでいけるよう願って欲しいのです。そして、イエスさまは(ルカも?)、「南の女王が、さばきのときに……」と、終末の時を問題にしています。シバの女王とニネベの民が、最後の審判の時に、私たちを告発する者の証人として神さまの前に立つというのでしょうか。少なくとも彼らは、イエスさまの時代のユダヤ人が神さまから離れていると証言しているのです。「ソロモンの知恵」も「ヨナの説教」も、その中心は神さまのことばを聞くことにあるのです。ルカの時代の初期教会も、また現代人の生き方も、その中心を欠いていると、それがこのところのメッセージであると聞こえてきます。

 しかも、ソロモンよりも、ヨナよりも「まさった者がいる」と言われます。これはイエスさまのメシア宣言と聞かなければなりません。「しるし」云々より、イエスさまは、そこに聞く耳のある者が起こされることを願い、ご自身こそメシアであると宣言されたのでしょう。神さまに近づくために、見上げなければならないお方、十字架のイエスさまがここにいらっしゃると、それがルカのメッセージでした。「信仰とは聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる」(ロマ10:17)と、ルカの信仰には、このパウロの教えが脈々と流れています。「キリストについてのみことば」とは、具体的に言うなら十字架とよみがえりですが、信じたくない者たち(パリサイ人や律法学者たち)は耳をふさぎ、その福音を聞こうとはしません。そしてルカは、初期教会の中に、彼らのような人々(恐らく律法主義者たち)が出始めていると心配しているのです。現代のことにも触れておかなければなりません。現代神学は、イエスさまが十字架に死なれたことやよみがえられた事実には無関心で、ただ弟子たちの中に十字架やよみがえりを信じる「信仰」があり、その「信仰」が私たちに伝えられて来たのだと主張しています。しかし、十字架もよみがえりも、事実だったからこそ聞くことが出来るのではないでしょうか。


V 輝きある歩みを

 続けてルカが上げるのは、マタイの山上の垂訓にもある(5:15、6:22-23)、いくつかの断片を継ぎ合わせたものです。恐らくこの部分は、山上の垂訓とは別の時にイエスさまがこのように話されたという原資料があり、それにルカの編集の手が加えられたのだろうと思われます。ですからここでも、イエスさまのメッセージにルカのメッセージが重ねられています。「だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます」(33-36) 33節の部分は、すでに8:16で用いられたものですが、そこでのメッセージは、光たるイエスさまを輝かす者であれと、宣教のために町々村々に遣わされようとする弟子たちに対するものでした。しかし、この部分はその繰り返しではなく、イエスさまを悪霊のかしらベルゼブルと結託している者と断じ、それでもなお自らをメシアとするならしるしを示せと詰め寄る、パリサイ人を中心としたユダヤ地方の人たちに向けて語られたものとなっています。ルカのメッセージが色濃くにじみ出ていると感じます。聞いていきましょう。

 このところには、「あかり」「からだのあかりはあなたの目」「あなたの光」「あなたの全身が明るい」という輝きの部分と、逆に、「穴倉や枡の下」「目が悪いとからだも暗くなる」「暗やみ」「何の暗い部分もなくて」など、光を失った部分との対比が繰り返し語られています。繰り返しは強調ですが、一体、何を強調しようとしているのでしょう。ここに、繰り返し用いられる要素がもう一つあります。「(あかりを)つけて」、「(それを)置く」、「気をつけなさい」ですが、同じことばではないのに、同一のことを繰り返し表現していると感じます。それは、「私(もしくは、あなた)がする」という、隠されてはいるけれども、主語の意志を言っているのではないでしょうか。そのように聞きますと、「目」が問題にされていることも頷けます。主語(私、もしくはあなた)が何を見ようとするのか(聞こうとするのか)が問われているのです。明かりなのか、それとも、暗やみなのか。明かりとは、イエスさまがメシアであり、十字架とよみがえりが「私のためであった」と受け止め、それを信じ、告白することにより、神さまから「あなたの全身は明るい」と認定されることなのです。神さまの認定ですから、救いに招かれたと言い換えてもいいでしょう。パリサイ人たちもそのところに招かれました。しかし彼らは、その招きに応えようとはしませんでした。暗やみを選んだのです。私たちはどうでしょうか。まだ、チャンスはあります。忍耐強く私たちの応答を待っていらっしゃる主に、心を込めて応えようではありませんか。