ルカによる福音書

54 みことばを聞く幸いを

ルカ  11:14−28
イザヤ 49:24−26
T ベルゼブル問答

 イエスさまが「大切なものは一つ」とマルタに言われた(10:42)ことの第一が、祈りについての教えでした。次にルカが上げるのは、パリサイ人、律法学者との激しい対決の記事です。ルカは、恐らく以前にあったと思われるものも含め、いくつもの断片的な記事を重ねながら、ここで「大切なこと」を描き出しているようです。今朝は、その最初、「ベルゼブル問答」と言われるところからです。

 「イエスは悪霊、それもおしの悪霊を追い出しておられた」(14)と、ガリラヤ地方でいつもしておられたような、イエスさまの活動が始まります。マタイの記事では(12:22-30)ガリラヤが舞台ですが、ルカは、十字架を目前にイエスさまのユダヤ地方の町々村々での活動はこのようであったと、この記事を書いているのかも知れません。「悪霊が出て行くと、おしがものを言い始めたので、群衆は驚いた。しかし、彼らのうちには、『悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ』と言う者もいた」(14-15)と、ここにガリラヤ時代のイエスさまを知らない群衆が登場しています。もっとも、イエスさま批判の背後にはいつもパリサイ人が見え隠れしているのですが……。「ベルゼブルによって……」とこれは、自分たちとは違うものに異端というレッテルを貼り付けるときに、彼らがしばしば用いる常套手段でした。それにしても、病に苦しむ人が癒されたことに、喜びや感謝の反応があって当然と思うのですが、彼らはイエスさまを排除することだけに躍起になり、ただ自分たちの保身のみを考えているようです。ベルゼブルは、サタンの別名と誤解されていますが、もともとは異教(カナン)の神名「バアル・ゼブブ」(崇高なる主)であり、その「異教の」というところから、サタン王国の頭の一人を指すようになったのだそうです。異教も異端も区別なしにユダヤ教の敵とみなしたのでしょうか。サタンを持ち出さなかったのは、イエスさまにそのような絶大な力があるとは認めたくなかったからでしょう。「また、イエスをためそうとして、彼に天からのしるしを求める者もいた」(16)ともありますが、これはイエスさまにメシアとしての証拠を出せという言い方です。「まさかメシアではないでしょうね」というニュアンスを込めて……。今、エルサレムを目指そうとされるイエスさまには、パリサイ人たちの混乱をも含め、連日このような緊張が伴っていましたが、それは十字架の出来事がすでに始まっているからだと、ルカのメッセージが聞こえてくるようです。


U 主の戦いは

 しかし、イエスさまは、彼らの中にみにくく燻っている敵愾心を見抜いて言われました。「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます。サタンも、もし仲間割れしたのだったら、どうしてサタンの国が立ち行くことができましょう。それなのにあなたがたは、わたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出していると言います。もしもわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの仲間は、だれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの仲間が、あなたがたをさばく人となるのです。しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。わたしの味方でない者は、わたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です」(17-23)

 イエスさまがベルゼブルであるなら、悪霊を追い出すなど、まさにサタン王国の分裂であり、それは権力闘争に他なりません。そしてその分裂騒動は、むしろあなたがたの中にあるのではないかとイエスさまは言われます。悪霊を追い出す権威が悪霊どものかしらにあると言うのなら、「あなたがたの仲間には、同じことをしている人たちがいるではありませんか。その仲間はいったいだれの助けを借りて悪霊を追い出しているのですか。」彼らの論理によると、神さまのみ名において悪霊を追い出し、賞賛されていた仲間たちは、実はサタンのわざということになると、イエスさまは指摘されたわけです。しかし、ニコデモやアリマタヤのヨセフなど(ヨハネ19:38-42)、彼らには組みしない人もいました。イエスさまが「神の指によって……」と言われたのは、そのことを指しているのでしょう。

 自分たちはパリサイ派だ、サドカイ派だと、ユダヤ人指導者たちは権力闘争を繰り返していましたが、とどのつまり、ユダヤ人世界自体が神さまとサタンの戦いの舞台になっていたということではないでしょうか。「強い人」がサタンを、「もっと強い人」がイエスさまを意味すると聞くなら、そこには、勝利を得るのだと、強い決意をもって戦いに出て行かれるイエスさまのお姿が浮かんできます。イザヤはその勝利の様子を描き出していますが(49:24-26、53:12)、そのことを意識していたのでしょうか。勝利は十字架によるのだと、ルカのメッセージがここに込められているようです。


V みことばを聞く幸いを

 イエスさまの勝利は動きません。それはイザヤよりはるか以前に神さまが確定されたことでした。しかし、サタンが挑む戦いは、現代の「私たち」という舞台の上でも執拗に繰り返されており、恐らくそれは、私たちが神さまのみ国に上げられる時まで続いていくのでしょう。イエスさまはそのことを意識されたのでしょうか。もう一つのたとえ話をされました。「汚れた霊が人から出て行って、水のない所でさまよいながら、休み場を捜します。一つも見つからないので、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。帰って見ると、家は、掃除をしてきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります」(24-26)

 「出て行って」とは、「もっと強い人」に追い出されたことを指します。「水のない所(荒野)」はサタン(悪霊どもも)の住みか(4:1)ですが、人間を支配する欲望こそ彼らの本性であると留意しておかなくてはなりません。そのことをはっきりさせますと、荒野でイエスさまとの戦いに敗れたサタンが「しばらくの間、イエスを離れ」(4:13)、私たち人間世界に戦いの場を移したとは、容易に想像できることです。このたとえ話は、サタンに住みかを提供してしまった私たちの様子を語り尽くしているではありませんか。一つ問題があります。「家は、掃除をしてきちんとかたづいていた」というところです。それは私たちの信仰を指しているであろうと思われますが、それが悪霊どもに一層住み心地の良い場所になっているというのです。それがキリスト教という宗教分野での「信心」であるとするなら、あり得ることではないでしょうか。きっと、ルカ時代の教会にもそんな信者たちが紛れ込んでいたのでしょう。もしかしたら、ユダヤ風の律法主義的信仰を指していたのかも知れません。

 ルカが唐突に奇妙な小問答を挿入したのは、そんなサタンとの戦いに、どう勝利していくのかという処方箋にほかなりません。「イエスが、これらのことを話しておられると、ひとりの女が声を張り上げてイエスに言った。『あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。』しかし、イエスは言われた。『いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです』」(27-28) 神さまのことばを聞き、それを守ることだけが、サタンとの戦いに勝利を収めることが出来るのです。ここにルカは、聖霊に満たされる(11:13)ことも含めているのでしょうが、イエスさまを信じる信仰は、そのどれを欠いても確立しません。聖書に聞き、聖霊の導きを頂いて、イエスさまの十字架が私たちの罪の赦しであると信じる信仰がはじめて確立していくのです。覚えていきたいと思います。