ルカによる福音書

53 主の霊を頂いて

ルカ 11:1−13
イザヤ 45:1−3
T イエス教団の祈りを

 今朝の箇所は、祈りについて弟子たちに教えられた3つの記事からです。「さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください』」(1) この書き出しは、当時、ユダヤ人の宗教グループがいづれも共同の祈りを持っており、そのような祈りを「イエス教団」も持つべきではないかとの発想があったことを物語っています。つまり、弟子たちはここで「イエス教団」を意識しており、自分たちも世間に認められるよう、教団としての形を整えていこうではないかと、まず、共同の祈りをイエスさまに求めたのです。最初に上げられる祈りは「主の祈り」と呼ばれるマタイに近いものですが、同じというわけではなく、むしろ断片的と感じられるほど短いのです。しかし、それを補完するように、イエスさまの2つのお話が加わえられました。そのことにより、祈りというものが何であるかを、共同の祈りという儀礼的なところを超えて示そうとしたのではと思われます。


U 共同の祈りを超えて

 さて、この「主の祈り」です。「父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください」(2-4) 主の祈りはマタイ、ルカともに二部構造になっており、第一部は神さまに関する願い、第二部は私たちに関する願いが中心になっています。参考にマタイの記事を紹介しておきましょう。「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」(6:9-13)

 少しだけ説明しておきましょう。まず、「天にいます私たちの父よ」が「父よ」になっていることですが、それは、弟子たちの目がイエスさまに向くことを求めたためでしょう。神さまを「父」と呼べるのは、イエスさまによる救いを受けた者たちだけなのですから。また、「みこころが天で行われるように地でも行われますように」がないのは、それはすでに「御国が来ますように」という祈りに含まれていると見たのでしょうか。そこにもイエスさま中心の世界が展開されているようです。「日ごとの糧」の部分の「きょう」が「毎日」になっているのは、これが朝の祈りなら「今日」、夕べの祈りなら「明日」を指しているので、その意味ではここは「私たちに必要なパンを、日々私たちに与えてください」(岩波訳)が適訳ではないかと思われます。「私たちのをお赦しください。私たちに負いめのある人たちを……」と、「罪」を「負いめ」と言い換えているのは、神さまの前では「罪」であることも、それが自分に向かうなら「負いめ」でしかないというルカの意識なのでしょう。最後の部分「悪からお救いください」は、恵みの神さまには不必要な祈りでしかない……と。そう見てきますと、祈りとは流麗な儀式文ではなく、心からほとばしり出る願いであり、神さまへの語りかけなのだと、ルカは、その本来的な祈りを目指しているのではと感じます。

 もしかしたらルカは、建て上げている異邦人教会の現場でこれを教えようと、儀礼的な要素を省き、祈りのエッセンスを追求し……、それがこのような形になったのではと想像しました。彼が関係した異邦人教会では、これが共同の祈りになっていたようです。もっとも、採用した独自の資料は初めから簡潔だったようですが、彼は、マタイのものも含めて幾度も検討を重ね、これを採用しました。編集に当たっては、その欠けた部分を補うことも出来た筈なのに、それをしなかったのは、ルカのこれでいいという判断があったからでしょう。「主の祈り」を何度も教えられたイエスさまご自身が、きっとこの簡潔な祈りを残されたであろうと、彼は受け止めたのです。

 そしてここに、現代の私たちへの問いかけが聞こえてきます。もしイエスさまが、現代の私たちにこの祈りを教えようとされるなら、それは一体どんな「主の祈り」になるのでしょう。今、私たちは、西方教会に倣い、マタイの記事を教会の儀礼文として踏襲しているわけですが、ルカの記事は、そんな私たちに、それでいいのかと問いかけているようです。マタイよりルカのほうがいいというのではありません。どちらもイエスさまが教えられたものですから。ただ、礼拝式文としてことばを並べるだけのものにしてはならない、これをあなたの真の祈りにしなさいとの戒めが聞こえてくるようです。


V 主の霊を頂いて

 ところで、ルカにとって神さまは、イエスさま抜きには認めることすら出来ないお方という理解があったのではないでしょうか。彼は、何よりもイエスさまのことを語りたかったのです。「主の祈り」を補完するように語られたイエスさまのお話から、そのことを聞いていきましょう。まず一つめのお話からです。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない』 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう」(5-8)

 これはたとえ話ですが、当時の貧しいユダヤ人の実生活で、こういった状況は決して珍しいことではありませんでした。「パン三つ」は彼らの一人分一回の食事量ですし、もしかしたらそれは、貧しい人たちが食する大麦のパンだったのかも知れません。頼みに行った人は、それすら整えることが出来なかったのです。それが主の祈りにある「日ごとの糧」に当たることは言うまでもありません。このたとえ話は、結局、彼は貸してもらえたであろうと、その結末を想像させてくれます。これは祈り続けることを教えたものですが、それは多く願わなければ聞かれないということではなく、祈りに主に対する信頼(信仰)が確立しているかと、まずそのことが第一に問われているのです。頼りがいのある友人をイエスさまと見るなら、イエスさまはその祈りを最初から聞いていらっしゃったと、お分かり頂けるでしょう。

 もう一つのことです。「わたしはあなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」(9-13) ここでは、前の話を引き継ながら、「求める」ことを中心に話が進められています。「求める」「捜す」「たたく」と並べられる三つのことは、同じことの重みを次々と膨らませているのだろうと思われます。そして、その構図が「悪い父親」から「天の父」への移行にも繰り返されています。ルカのメッセージは、人が「何を」求めていいのか分からなかったとしても、神さまは何よりも大切なものをくださるというところで締めくくられています。それは「聖霊」です。そして、福音書、使徒行伝を通して、これがルカの中心主題であることは繰り返すまでもないでしょう。主の霊と言い換えたほうがいいのかも知れません。「イエスさまを信じます」と、それは、イエスさまの霊を受けた者たちだけがなし得る告白ではないでしょうか。求める者には最高の約束が……。その確かな約束のもとで、父なる神さまに届く祈りを重ねていきたいものです。