ルカによる福音書

52 主に仕えるとは

ルカ 10:38−42
箴言 3:1−12
T イエスさまを迎えて

 70人の弟子たちの派遣と帰還、エルサレムから送られて来た律法学者とのやりとり、それらの挿入記事(10:1-37)は、恐らくヨルダン川東岸の、ペレヤ地方での出来事でした。数ヶ月にも及ぶと思われる日々を過ごされたペレヤ地方を去って、イエスさま一行は、ユダヤの町々村々を転々と巡回されることになりますが、その記事は19:27までと非常に長いのです。きっとルカは、その日々を大切にしたかったのでしょう。その最初に、今朝のテキスト、エルサレムの隣村ベタニヤでの出来事があります。

 「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした」(38) 「さて、彼らが旅を続け……」とルカは、70人の弟子たちを派遣する前の状況(8:1-3)に話を戻しているようです。そこでは依然として12人の使徒と数人の女性がイエスさまのお供をしており、その彼ら一行はベタニヤに着きました。そこは、マルタを筆頭に、マリヤ、弟ラザロの、三人姉弟の家です。マタイの記事(26:6)を見ますと、彼らの父・シモンがイエスさまにらい病を癒して頂いたことから、シモンはすでに亡くなっていたようですが、イエスさまがエルサレムに行かれる時には、その家を宿とされることが常だったように思われます。この三人姉弟の記事は新約聖書に(特にヨハネの福音書に)結構多いのですが、ルカはなぜかここで、ベタニヤという村名やシモン、ラザロのことには触れず、ただマルタとマリヤの名前だけを上げるに留めています。そのルカの意識を探ってみましょう。

 「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず(心をとりみだし=口語訳)、みもとに来て言った。『主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください』」(39-40) 賓客イエスさまを中心に、12人の使徒たちが同席しています。心のこもったたくさんの料理が出され、食事の風景は自然、宴ふうになっていました。忙しく立ち働くマルタを、一行の女性たちが手伝っていただろうと想像します。ところが妹マリヤは、イエスさまの足もとにすわってお話を聞いているのです。この家の女主人であるマルタは、忙しさに加え、お客さまを手伝わせていることに気兼ねしたのでしょうか。何もしないマリヤに、腹を立ててしまいました。


U なくてならぬものは

 彼女はその不満を、マリヤに直接ぶつけず、イエスさまのところに言って来ました。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください」 まるでマルタは、父親に甘えているようではありませんか。もしかしたら、イエスさまのそばにべったり座り込んでいるマリヤに、嫉妬しているのかも知れません。

 そんなマルタに、イエスさまが言われました。「マルタ、マルタ。あなたはいろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません」(42) 新改訳は少々くどいようで、「なくてならぬは一つなり」(永井訳)としたほうがすっきりしているように思えますが、ここから、「神さまのことばに聞くこと」が私たちにとって唯一なくてならぬもの、と聞こえてきます。もちろん、それも聞かなければならないことでしょう。しかし、ルカがここで選んだ主役は、マリヤではなくマルタなのです。ルカの伝えたいメッセージは、別のところにあるのではないでしょうか。

 マルタのことをもう一度考えてみる必要がありそうです。彼女は台所の仕事を受け持って忙しく立ち働き、そして傷つきました。それがマリヤへの嫉妬であったとしても、或いは、手伝ってくれる女性たちのためであったとしても、「マリヤに台所の仕事を手伝うよう言ってください」と、彼女はイエスさまに訴えました。結果はどうだったでしょう。マルタの希望が聞き入れられたでしょうか。そうではなく、「なくてならぬものは一つ」というイエスさまの、諭すようなことばを聞くことになってしまいました。そして、これがこの箇所の中心であることは言うまでもありません。この中心を引き出すために、ルカはマルタを主役に、この記事をまとめたと言っていいのではないでしょうか。


V 主に仕えるとは

 ところがこの箇所では、「なくてならぬ一つ」の内容には全く触れられていません。マリヤが聞いていたメッセージがどんなものだったのか、何も記されていません。恐らくルカは、それをここに記す意志が全くなく、最初から「なくてならぬものは一つ」と、述べるに留めるつもりだったのでしょう。今朝、冒頭で申し上げたことを思い出して頂きたいのですが、ルカは11章から19章までを、町々村々の巡回に当てていると触れました。そしてルカは、その日々を大切にしたかったのだろうと申し上げました。その巡回は、イエスさまがかつて訪れたことのある人たち(隠れた弟子たち?)の再訪ではなかったかと想像します。それは、きっとこれが最後の訪問になり、その人たちにどうしても話しておきたいことがあると、その思いあってのことではなかったでしょうか。11章には「主の祈り」があり、12章には山上の垂訓(平野の垂訓?)らしいものの一部が語られていますが、それは、前の教えをルカがここに挿入したのではなく、実際にイエスさまが、かつてそれを聞いた人たちに、もう一度と願って語られたものだったのでしょう。「弟子たちに教える」、その具体的なことを、ルカは11章以下にまとめているようです。それがこの巡回の主要目的でした。イエスさまは彼らに、やがて教会を打ち立てていくであろうその時の、主要メンバーになって欲しいと願っておられるのです。10章の始めに70人の弟子たちが町々村々に遣わされていったことも、同じ目的があってのことでした。

 今朝のテキストは、そのプロローグに相当するところではないかと思うのです。
 しかし、このテキストは、「なくてならぬものは一つ」と、11章以下に続くメッセージの始まりを予告するだけのものではありません。ここでなければ伝えられないルカのメッセージが込められているようです。聞いていきましょう。

 このテキストがマルタを主役にしているところからです。彼女は台所に立ちました。イエスさまをもてなそうとしてのことです。きっとその時点では、喜びだけがマルタの心を支配していたと思われます。それは、主に仕えるという喜びだったでしょう。教会でメッセージを取り次ぐことも、トラクト一枚を配布することから始まる伝道のわざも、或いは、聖日礼拝に備えて会堂を整えることも、そして、オルガン奏楽者になることも、主に仕えるわざは多岐に渡りますが、台所に立つというマルタにしか出来ないことを、彼女は喜んで受け持ったということを覚えたいのです。主に仕える、それは、私たち一人一人に託された働きをしていくということであり、その「仕事」が何なのかは問われません。もちろん、大きい小さいなどのランク付けも……。メッセージを聞くことさえ、同じ「仕える」ことなのです。マルタは、台所で働くことよりも、「私だって、イエスさまのそばに座って聞きたいのに」と思ったのでしょう。ところが、その時点で彼女から喜びが失われ、代わりに不満が噴き出してきました。彼女は、台所で働くことが「主に仕える」ことであると覚えなければなりませんでした。私たちも同じです。誰にどんな「仕事」を託されるかは、主がお決めになることで、私たちの選択ではありません。ただ、主の委託に応えようとするか否かが問われているのです。イエスさまに聞くことも、イエスさまに仕えることも同じことだと、それがここで語られるルカの中心メッセージなのです。恐らく、当時の教会にも、こうした誤解が生じかけていたのでしょう。喜んで「主に仕える」、そこには、「主から聞いて、その聞いたことを行ないなさい」という、初代教会へのメッセージが込められているのです。私たちはこれをどう聞こうとするのでしょうか。