ルカによる福音書

51 愛が失われる時代に

ルカ  10:25−37
レビ記 19:13−18
T 永遠のいのちを得るために

 今朝のテキストは、前回、恐らくエルサレムから送られて来た刺客のひとりであろうと触れた律法の専門家、彼の質問から始まります。「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った」(25) 彼は律法学者なのでしょう。それをここではわざわざ律法の専門家と言い換えています。それは、エルサレムの賢者たちが、イエスさまとは律法を巡る議論になると見越し、律法学者たちの中から選りすぐって彼を送り込んで来たという、ルカの認識からと思われます。

 「先生。何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」(25) 「永遠のいのち」という概念は旧約聖書にもあり、それが70人訳(ギリシャ語訳旧約聖書)を経て、この律法学者が属する後期ユダヤ教や新約聖書に組み入れられたと考えられます。つまり、律法学者とイエスさまは同じニュアンスでこのことばを用いました。それによりますと、「永遠」は有限な一瞬の時間が無限に続くということであり、ユダヤ人はその無数・無限の時間である永遠を神さまに属する事柄とし、メシアは時の中心としてそれを保有していると理解していたわけです。今、この方が自らをメシアであるとするなら、この質問に明確な答えを示さなければならないと、彼らの論理はこうです。彼が偽物なら、もちろん答えることは出来ないだろう。しかし、よしんば本物のメシアであったとしても、この人は今、人となって自分たちの目の前にいる。今ここにいる、それは彼が有限な一瞬の時間の有形化した存在であり、その彼に永遠について語る資格はない……と。「イエスをためそうとして」とは、その辺りのことを指しているのではと想像します。まさに彼は「律法の専門家」でした。

 ところが彼は、「先生。何をしたら」と質問しました。「先生」には尊敬を込めた「ラビ」という言い方が多いのですが、彼はイエスさまをラビとは呼ばず、むしろ小馬鹿にしたような、「教えている人」という意味で先生と呼びかけました。初めからイエスさまをメシアと認めてはいなかったのです。しかも彼は、「何をしたら」と質問しました。いかにもユダヤ人らしい律法的な発想ではありませんか。ユダヤ人は、神さまから一方的に授与される筈の恩恵・「永遠のいのち」を、律法を遵守することで得ることが出来ると教えられていました。そんな子ども時代から教えられてきたことが、つい顔を覗かせたのでしょう。しかしイエスさまは丁寧に答えられました。


U みことばの前で

 「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか」(26) 質問者は律法の専門家でしたから、少しアドバイスをするだけで、彼自身が答えを見つけるだろうと期待されたのでしょうか。いや、もしかしたら、彼がその悪意を捨てるようにと、最良の答えを用意されたのかも知れません。彼が最も信頼するものを、彼自身から引き出そうとされたのですから。みことばの前で一人の真実な求道者になって欲しい。それがイエスさまの願いだったのでしょう。もっとも、マタイによりますと、これはユダヤ人指導者と絶交される直前の出来事(22:34-46)で、彼がその悪意を捨てることはなかったようです。ともあれ彼は、思惑通り律法論議になるとばかりに、胸を張って答えました。「『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また、『自分と同じように、あなたの隣人を愛せよ。』とあります」(27) ラビたちは、その二つの戒め(申命記6:5、レビ記19:18)に律法全体が集約されていると教えていました。これは、礼拝で司会者が、「シェマー(聞きなさい)」と叫びますと会衆がこの二つの戒めを唱和したところから、「シェマー(の祈り)」と呼ばれるユダヤ 人の信仰告白となっており、民たちは一日二度これを唱えていました。彼は、何の迷いもなくこのシェマーを答えました。そして、イエスさまは言われました。「そのとおりです」(28) これは「あなたの答えは正しい」(口語訳)ということで、欽定訳や新共同訳など多くがそのように訳しています。

 彼はイエスさまが期待した通りの正しい答えをしたのです。しかし、それだけでは不十分でした。イエスさまは続けて言われます。「それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」(28) そうです。彼ら律法学者たちは、神さまのことばを正しく保持するという尊い責任に従事していながら、その実、ことばを弄んでいるだけでした。イエスさまは鋭くそのことを指摘されたのでしょう。


V 愛が失われる時代に

 「しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。『では、私の隣人とは、だれのことですか』」(29) きっと彼は、「あなたの答えは正しい」と言われても、イエスさまが心からその答えに同意されたとは思わなかったのでしょう。「それを実行しなさい」と意表をつかれ、あわてた彼は自分の正しさを示そうとして、「では、私の隣人とは、だれのことですか」と、もう一度質問してしまいます。恐らく、自分の正しさを論証しなければならないなど、これまでに一度もなかったことではないでしょうか。彼は律法の教師であり、それも専門家と言われるほどの人でしたから、彼が正しいのは当然のことでした。ここにはすでに、永遠のいのちを問いかけた第一の質問など、影も形もありません。初めからそんなことには全く関心がなかったのでしょう。そして第二の質問からは、「私は正しい。これ以上どうしたらいいのか」という彼のとまどいが浮かんでくるようです。日に二回もシェマーを唱えながら、隣人を意識していない様子が浮き彫りにされているではありませんか。

 それでもイエスさまは丁寧に、正面から彼に向き合おうとされます。話されたたとえ話は「良きサマリヤ人」として知られるものです。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中で、だれが強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」(30-36)

 ここに言われる強盗(団)は、ガリラヤで結成された政治結社・熱心党員です。彼らは政治の主権をユダヤ人の手に取り戻すべく、その資金を同胞のユダヤ人から(たとえ強盗をしても!!)調達するのを当然としていました。祭司やレビ人は、当然ながらそのターゲットなのです。彼らは今、エルサレムでの礼拝を終えて、帰りだったのでしょう。エリコは祭司の町でした。ここで一つのことを取り上げたいのですが、この祭司もレビ人も、そして強盗さえ、実は、神さまのみ国への道しるべを刻んでいる人たちだったということです。にもかかわらず、彼らには神さまがご自分の民に求める愛が欠けていました。そして、むしろシェマーなど知らない外国人の、つまり、神さまのみ国からは遠いとされていたサマリヤ人に、その愛を見出すのです。彼はエルサレムに向かう途中でした。恐らく商用のためだったのでしょう。そのことが礼拝を終えて帰宅する祭司やレビ人と比較されているのです。イエスさまの目は彼に向けられました。これは単なる例話ではなく、実際にあった出来事をモデルに話されたと思われます。まさに、愛が失われつつある現代への警告なのでしょうか。愛なき者よと、その問いかけは、私自身に対してだと聞こえてきます。「隣人はだれか」と問われ、彼は答えました。「その人にあわれみをかけてやった人です」(37) きっと、彼の目にもユダヤ人社会のほころびが映っていたのでしょう。「あなたも行って同じようにしなさい」(37)と、彼の中にイエスさまのことばが残ったであろうと想像するのですが、さて、私たちは今、これをどう聞こうとするのでしょうか。