ルカによる福音書

50 ひそやかな声を

ルカ   10:21−24
T列王記 19:11−12
T 知恵によらず

 「ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた」と今朝のテキストが始まります。マタイはこれをガリラヤの町々に対する嘆きや種蒔きのたとえに結びつけている(11:21-27、13:16-17)のですが、ルカはこれを70人の弟子たち帰還に結びつけ、彼らの報告を契機に喜びが溢れ出たものとしています。そもそもマタイには70人の弟子派遣と帰還の記事がないのですから、恐らく、出来事の経過としては、ルカの扱い通りなのでしょう。しかしここに、「聖霊によって」とルカの主要なテーマが顔を覗かせていることから、ルカの編集の手が相当に加えられていると思われます。ここに語られているメッセージを聞くとともに、ルカのその編集意図をもあわせて探ってみたいと思います。

 「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです。父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、子がだれであるかは、父のほかには知る者がありません。また父がだれであるかは、子と、子が父を知らせようと心に定めた人たちのほかは、だれも知る者がありません」(21-22) このところは、イエスさまの祈りであり、父なる神さまへの語りかけであると同時に、ご自身が父なる神さまから遣わされたメシアであるという宣言でもありました。その宣言には、ご自分は父と一体である子−すなわち神ご自身−であるという主張と、そしてその主張を、弟子たちも共有して欲しいとの願いが込められているようです。「また父がだれであるかは、子と、子が父を知らせようと心に定めた人たちのほかは、だれも知る者がありません」 これは、帰って来た70人の弟子たちへのメッセージなのでしょうか。「これらのこと」とは〈この「また」で始まるイエスさまのことば〉を指していますが、実はこれは、9:47-48で語られたことの言い換えなのです。そして、「幼子たち」とは、同じ9章で言われた者たち−弟子たち−を指していると聞いていいでしょう。つまり、12使徒への教えが70人の弟子たちに対しても繰り返されているのです。ルカはこれを非常に重要なことであると受け止め、それがこういった編集になりました。恐らく、ルカが関わる異邦人教会に「賢い者や知恵のある者」が増え、その知恵で教会運営を図ろうとする風潮が大勢を占めていたと思われます。ルカはその風潮に「否」を唱えたのでしょう。


U 真実な約束を

 きっと、次のフレーズ(10:25-)に出て来る律法の専門家など、その「賢い者や知恵のある者」に当たるのでしょう。彼の場合は「イエスをためそうとして」と、そんな思いがまる分かりだったようです。9:57に出て来る律法学者の場合、その内面にどんな思いあったかは不明ですが、彼が新弟子、或いは弟子入り志願者だったことから、そのケースは、教会に「賢い者や知恵のある者」が入り込んで来る状況を物語っているように思われてなりません。恐らく、はっきりと悪意を持った前者のような人たちも教会に入り込んで来ていて、教会は時間を重ねる毎に多様性が膨らんできているのです。ルカはそんな風潮を懸念していたのでしょう。もちろん、教会は愚者の集まりなどと言うつもりはありません。むしろ教会は、人格的にも能力的にも非常に優れた人たち−神さまから高度な訓練を受けた人たち−が多い社会と言えるようです。が、しかし、それでもなお、彼らは幼子であることを要求されているのです。それは、神さまがイエスさまにおいて為し、かつ語られたことを見聞きするためでした。それは、世の知恵によっては決して分からないことだが、幼子のような心で聞くなら悟ることが出来ると、イエスさまは信仰のことを言っておられるのです。

 「父がだれであるか」と言われました。イエスさまと父なる神さまとの関係を言っているのでしょうか。そうではないようです。想像の域を出ないのですが、「父」とはイエスさまにとっての父であり、弟子たちなら分かると言われたのではないでしょうか。それは彼らが、「子(イエスさま)が知らせようと心に定めた人たち」だったからです。ことばではなく、行動によって。つまりそれは、十字架を指しているのではないでしょうか。すると、弟子たちにとってイエスさまの父とは、十字架による自分たちの罪の赦しを認定するお方に他なりません。帰還した弟子たちの記事を、「ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」とイエスさまは締めくくられました。イエスさまの十字架に罪を贖われた者たちは、その名を天に書き記されると、それは神さまの約束でした(イザヤ4:3、ピリピ3:20)。信仰だけが、その約束を真実なものであると聞くことが出来るのではないでしょうか。


V ひそやかな声を

 「それからイエスは、弟子たちのほうに向いて、ひそかに言われた。『あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです』」(23-24) 「ひそかに」とありますが、その状況のことを考えてみなければなりません。この記事の背景になっている「場所」ですが、それは、70人の弟子たちを派遣し、彼らが帰って来たところと同じでしょう。ヨルダン川東岸に広がるペレヤ地方だった可能性が高いと思われます。イエスさまはかなり長い日数をそこに滞在されていたからです。エルサレム入城の折り、イエスさまの一行はおびただしい人たちの行列になっていましたが、その多くはペレヤ地方からついて来た人たちだったようです。そのペレヤ地方でのお働きは、恐らく、ガリラヤ・カペナウムでのペテロの姑の家のように、ペレヤの中心にある町の大きな一軒の家を拠点として、あちこちを巡回しておられました。カペナウムでも大勢の人たちが詰めかけていつもすし詰め状態でしたが、そんな光景がペレヤのその家でも見られたのではと想像します。そうしますと、「ひそかに」というのは、恐らく、新共同訳や岩波訳などが「弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた」と訳した状況ではなかったかと思われますが、弟子以外の人たちにも聞こえる中で、「あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。……」と言われたのです。

 イエスさまが「見て欲しい」「聞いて欲しい」と願ったことは、「これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました」とある祈りに込められた、神さまの約束を指しています。それは信仰のことであると触れましたが、もう一歩踏み込んで、イエスさまが救い主・メシアであるということでした。ところが、そこに賢い者が同席していました。エルサレムの賢者たちです。今、イエスさまがペレヤ地方に来ているとエルサレムでは警戒していましたから、ガリラヤ地方からの追い落としに成功したように、ペレヤでも失脚させてしまおうと、刺客を送り込んでいたと思われます。25節に出てくる律法学者は、もしかしたら、エルサレムから送られて来たそんな一人だったのかも知れません。だからこそ、イエスさまのメシア宣言に敏感に反応したのではと想像します。彼らの賢さは、こと神さまのことに関して、他の追従を許さないものでした。エルサレムに近かったこともあって、首都の住民たちが地方を見下し、いかにも自分たちが賢い者、知恵ある者かのように振る舞っていたかを、ペレヤの人たちはよく知っていました。彼らは神さまから遠く離れた無知な田舎者扱いされていたのです。ペレヤ地方でなかったとしても、状況は同じでしょう。神さまから遠く離れている。それは、ガリラヤから来た弟子たちや、現代の私たちにも当てはまります。しかしイエスさまは、そんな者たちだからこそ振り向いて、「わたしはあなたのメシア・救い主だよ」と声をかけてくださるのではないでしょうか。そのひそやかな声を聞き取っていきたいと心から願わされます。