ルカによる福音書

48 贖い主なるお方を

ルカ 9:57−62
申命記 6:4−9

T 主が求めるものは?

 「さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。『私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。』すると、イエスは彼に言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません』」(57-58)と始まるこの記事は、マタイによれば山上の垂訓後間もなくの(8:18-22)出来事となっており、弟子たちがぞくぞくと加わり始めた頃に、弟子の資質を問いかけたものと思われますが、内容から見ますと、どうも、エルサレムに向かって歩み始めたところでの出来事とした、ルカに軍配が上がるようです。彼はマタイの福音書にも目を通していたのでしょうが、別の資料も入手しており、その資料を採用することで、マタイとは違った意図をもってこの記事を書き上げました。その意図を探ってみたいと思います。

 ここに登場してくる3人の人たちの、まず第一番目です。イエスさまのところにやって来た(マタイ)「ある人」が言いました。この人はマタイによると律法学者で、新弟子、或いは弟子入り志願者だったかと思われます。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます」と、彼には非常な熱心さが感じられますが、何となく、それは人間的(宗教的)な熱心さのようにも聞こえます。クリスチャンになったばかりの頃、自分にもそんな熱心さがあったなあと、私自身のことを思い出しますが、そんな熱心さなんてすぐに消えてしまうものですね。熱心で騒いでいるうちは、まだ本物ではないようです。文脈上から「イエスさまと関係を持つことによって生活の保障を得ようとしたのでは」と解説する人がいますが、恐らく彼は、イエスさまに(イエスさまは律法学者ではありませんでしたが、)律法学者としての格の違いを感じ、そのための弟子入りではなかったかと想像するのです。マタイがこの記事をガリラヤ伝道初期にもってきたのは、この律法学者の記事があったからではないかと思われます。

 イエスさまがお答えになりました。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」 実は、イエスさまには「枕するところ」がありました。それは、父なる神さまとともにいたところ(箴言8:22-31参照)だったのでしょう。しかしイエスさまは、その憩うところを捨て、私たち人間の真っ直中に来られたのです。それは、私たちの罪を贖う、十字架という苦難の道を歩むためでした。イエスさまは、その苦難の道を避けるべく、安住の場所を求めておられたわけではありません。今、イエスさまが真に求めておられたのは、ご自分とともに十字架への道を歩む弟子たちだったのではないでしょうか。ところが、その弟子たちは、「誰がみ国で一番になるか」とトップ争いに血眼になっています。「枕するところなし」とはその意味ではなかったかと、当時の教会に重ね合わせながらルカが感じた思いを、共有したいと思うのです。イエスさまの悲しみが伝わってくるではありませんか。


U ともに生きる者と

 二人目の弟子のケースです。イエスさまが弟子たちに求めておられることが次第にはっきりしてくるようです。「わたしについて来なさい」「まず行って、私の父を葬ることを許してください」「死人たちに彼らの中の死人の父を葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい」(59-60) このところを何度も読み返して感じた私の印象ですが、この人は、弟子たちの中でも古株だったのではないでしょうか。若い弟子たちの模範になっていた彼の言動に、どことなく元気がなく、心がどこかに飛んでいる……。そんな彼の様子を見ての、「わたしについて来なさい」というイエスさまからの誘い水に、ようやく彼は重い口を開きました。「父を葬りに行かせてください」 従来、彼の父は老齢だったのだろうなどと推測されてきましたが、素直に読むなら、この頃亡くなったか、或いは危篤状態にあったのではと考えたほうがいいでしょう。今、エルサレムを目指して歩み始めたイエスさまに従いながら、これが最後の親孝行になると、悲壮な決意をしての彼の申し出ではなかったかと想像するのです。ここに、イエスさまに従い通そうとする彼の決意が見えてくるようです。

 しかし、イエスさまは言われます。新共同訳のほうが分かりやすいでしょう。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」(60) 「死んでいる者たち」とは、恐らく、死に定められた者たちという意味かと思われます。実は、彼もその一人でした。ところが彼は、イエスさまとともに死に行く道を選んだのです。そしてそれは、イエスさまとともに生きることに他なりません。いざエルサレムへ出立というところで冒頭に記した「天に上げられる……」(51)というルカの意識が、ここにも繋がっているのです。「あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい」と言われて彼は、イエスさまに従うことの意味をここで改めて知ったのではないでしょうか。なぜなら、神さまのみ国(福音)を伝える時、イエスさまとともに生きるその道を、他の人たちもともに共有出来るようになるからです。


V 贖い主なるお方を

 「主よ。あなたに従います。ただ、その前に、家の者にいとまごいに帰らせてください」(61) エルサレムへの道行きには、どうも12人の使徒たちばかりではなく、他の弟子たち(或いは、イエスさまのシンパ?)も加わっていたようで、この三番目の人は、そういった人たちの一人だったのではと思われます。もしかしたら、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は……、わたしによって生きる」と言われたことをきっかけに離れていった弟子たち(ヨハネ6章)が、イエスさまがピリポ・カイザリヤからお帰りになったと聞いて一部戻って来ましたが、その中の一人だったのかも知れません。彼は、前の二人の言い分を聞いていて思ったのでしょう。あれこれ考えることはない。イエスさまを信じ、従うことは単純なことなのだ。「従います」とその決心を明確に表明すれば、きっとイエスさまは分かってくださるにちがいない。恐らく、その通りです。しかし、彼はその単純明快な性格からか、つい気軽に一時帰宅を願い出ました。すぐ近くなんだし、ちょっと家に立ち寄るくらいたいしたことではないと考えたのです。極めてドライなんでしょうね。「あなたに従います」という言葉の前に、(私だけは)と入れてもおかしくないところです。この部分はルカだけの記事ですが、これを前の父親を喪った弟子の記事の焼き直しと考える人たちがいますが、しかし、恐らくそうではないでしょう。彼はイエスさまの時代にイエスさまに接触して来た人でしたが、ルカ時代の異邦人社会を代表する若者でもあったのでしょう。当時の教会には、こんなお気軽な現代風の人たちが増えていたのではと想像するのです。

 しかし、そんな彼の何気ない願いから、福音宣教の働きに召し出された者たちの資質が問われることになりました。「だれでも、手を鋤きにつけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません」(62) 「だれでも」とそれは、そんな人が多かったからではないでしょうか。イエスさまに従うと言いながら、どこかに自分という部分を大切にキープしていて、福音に仕えることを一番にしているわけではない。イエスさまは、そのところを問題にされたのでしょう。神さまは徹底的にご自分を第一にすることを要求されます。律法(十戒)の第一にも、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」(出エジプト20:3)と言われる通りです。「手を鋤きにつけてから」とは、福音宣教の働きを言っているのでしょうが、もっと原則的に、「イエスさまを信じてから」と言い換えてもいいのではないでしょうか。イエスさまを信じた者たちは、神さまのみ国の一員と認められ、天国の市民権(ピリピ3:20)を獲得した者と呼ばれるのです。そのことに思いを馳せないで、イエスさまを信じる以前のことに心を残すようなら、それは信仰者としてふさわしくないと、これは警告でしょうか。いいえ。ふさわしい者になりなさいと、イエスさまは、その目線を主であるご自分に向けることを求めておらるのです。それがこの三人の弟子たちとの会話に盛られた記事の意味にほかなりません。その目線の先を、十字架の贖い主を、ルカは見ていたのでしょう。