ルカによる福音書

46 一番小さな者に

ル カ   9:46−50
出エジプト 32:31−32

T 教会時代の問題として

 「さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった」(46)
 51節を見ますと、イエスさまが「エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐに向けられた」とありますので、今朝のテキストはガリラヤ時代の最後の記事になるわけですが、マルコの記事によりますと(9:33)、これはカペナウムに戻って来られた時のことのようです。素通りと言ってもいいほどイエスさまは、ここにほんの数日いただけでエルサレムに向けて出立するのですが、恐らく、弟子たちも、いよいよイエスさまによるメシア王国樹立の時がやって来たと感じていたのでしょう。「だれが一番偉いか」というランクづけは、そのメシア王国でのトップ争いに他なりません。これよりも何ヶ月か後のことと思われますが、マタイに、「私のこの二人の息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい」(20:21)と、使徒ヤコブとヨハネの母親がイエスさまにお願いしている記事があります。このトップ争いは、決して突発的なことではなく、弟子たちの間にずっとくすぶり続け、この後も続いていく重大問題であることがお分かりでしょう。きっと、ルカ時代の教会にも同じような争いがあったのではないでしょうか。彼は、これが教会時代の大きな問題であるとして、この記事をガリラヤ地方を去るという要のところに据えたものと思われます。

 ルカがこれをエルサレム途上の一こまとしてではなく、彼ら使徒たちが人の子イエスさまに従って働いて来たガリラヤ時代の最後に取り上げたことは、これが、私たちの生き活動している此岸世界の、徹底的に人間的な問題だからなのでしょう。ともすればこれは、メシア王国を背景にしているところから、彼岸世界のことのように見えるのですが……。その人間的な問題をイエスさまがどのように感じておられるのか、ルカの意識をも合わせて探ってみたいと願います。


U 神さまに喜ばれる

 「しかしイエスは、彼らの心の中の考えを知っておられ、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせ、彼らに言われた。『だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。(なぜなら)あなたがたすべての中で、一番小さい者が、一番偉いのです』」(47-49) この記事は、マタイやマルコに比べますと、非常に短い。ほとんどの日本語訳は何故かこの語を省いているのですが、最後の文章の前に「なぜなら」という原語を訳出しなければ、何のことか分からないほどに短くまとめられています。ルカは、マタイやマルコが加えているような、神さまのみ国では自分を低く(小さな者と)する者が最も偉い(価値ある)者だというメッセージを中心にするための、説明的なものを全部省いてしまいましたので、結果的に非常に短い記事になったのでしょう。彼は謙遜の勧めを語りたかったのではなく、むしろ、説明がないだけに唐突とも思われる前半の、「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は……」を中心に、この記事を組み立てたのではないかと思われます。彼はこの部分に何も加える必要を感じていないようです。イエスさまが言われたことだけで十分であるとした、彼の思いが伝わってきます。

 「心の中の考え」とありますから、きっと、弟子たちは表面的には「自分なんか……」と謙遜に振る舞っていたようですが、イエスさまの王国では何とかしてトップの座に着きたいという強烈な願いが内面に渦巻いており、メシア王国建設の時が直前に迫って来たということで、その内面の思いが表面化したということなのでしょう。イエスさまはそのことを鋭く見抜き、そんな人間的なことではなく、福音の理解に関わる非常に大切なことを語られました。ルカは、イエスさまのそのメッセージに耳を傾けたのです。それがこのところでのイエスさまとルカのメッセージになったと聞こえてきます。人間的な謙遜など、欲望の前には何の役にも立たないのです。いや、むしろ、謙遜に振る舞うことで、人の内面に隠されている罪が神さまの前にはっきりしてくると言うべきではないでしょうか。もちろん、謙遜ということが何もかも悪いわけではありません。ですから、「あなたがたすべての中で、一番小さい者が、一番偉い」と言われているのです。しかしルカは、どのような謙遜が神さまに喜ばれるのか、そこに比重をかけているのではと聞かなければならないでしょう。


V 一番小さな者に

 イエスさまが言われたことの中心は、「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です」というところです。これが何を意味するのか考えてみましょう。

 子どもが引き合いに出されていますので、ユダヤ人の「子ども観」に触れておかなければなりません。それは、日本人が考えるような「天使」ではなく、むしろ「小悪魔的存在」と言っていいでしょう。子どもたちは、教育されることによって小悪魔的存在から神さまを敬い恐れる一人前のユダヤ人に成長していくのです。もっとも、イエスさまはそんな子ども観に囚われてはいませんでしたが……。彼らの教育は、聖書やタルム−ドなどから、神さまの導きの中でユダヤ人が辿ってきた歴史と、神さまの教え・おもに戒めとしての律法を覚えさせるものでした。しかし子どもたちは、当時のユダヤ人が陥っていた、極めて人間的な律法主義にはまだ毒されていなかったと言ったら言い過ぎでしょうか。子どもたちは、大人が教えた以上に素直に神さまのことを受け止めていくのです。神さまがこんなことをしてくださったと聞くと、少しも割り引かず、それをその通りに聞いて、神さまのことが大好きになっていくのです。

 イエスさまも、澄んだ瞳でまっすぐに人を見つめる、子どものようなところがありましたから、そんな子どもたちが大好きでした。もしかしたら、ここに立たされた子どもは、イエスさまご自身を象徴していたのかも知れません。まるで、イエスさまと神さまが同一であるように、子どもとイエスさまも一体なのだと言われているようです。そう聞きますと、イエスさまの言われたことがそのまま理解できるではありませんか。同時に、この子どもは、弟子たちでもあると言われているのではないでしょうか。弟子たちを受け入れるならイエスさまを、神さまを受け入れるのだと認証されるのです。彼らは、自分たちがそんな子ども・イエスさまの似姿として召されているのだ、と覚えなければなりませんでした。そして、その構図は現代の私たちにもそのまま当てはまります。しかし、この子どもに私たちを重ね合わせてみますと、果たして、私たちを受け入れる者はイエスさまを受け入れるのであり、神さまを受け入れるのだと、言い切ることが出来るでしょうか。誰がトップの座を獲得するかなどと目の色を変えているようでは、イエスさまの弟子としては心許ないではありませんか。

 そう聞いても、弟子たちは自分の願いから抜け出すことが出来ませんでした。ヨハネが答えます。「先生。私たちは、先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、やめさせました。私たちの仲間ではないので、やめさせたのです」(49) 彼らは、「イエスさまの名」のもとに集められたことを特権と受け止めていました。その意識がメシア王国でのトップ争いという最高特権確保にまでスライドしていったのでしょう。「やめさせることはありません。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方です」(50)と、イエスさまはそんな特権意識を拒否されました。それは、此岸に生きる者たちが是非とも欲しいと願い争うものであって、まさにサタンの誘惑の実ではありませんか。イエスさまを信じる私たちは、「あなたがたすべての中で、一番小さい者が、一番偉い」と覚えておかなければなりません。なぜなら、イエスさまを十字架にかけたのは「大きい筈の私」だからです。「罪人のかしら」と告白したパウロや、同胞の民の罪を自分のものとしたモーセやイザヤに倣いたいものです。