ルカによる福音書

45 不信仰の時代に主を

ルカ 9:37−45
イザヤ 55:6−13
T 主よ。お助けください

 前回、変貌山でのことは、イエスさまが栄光の姿に変わられたことが中心ではなく、エリヤとモーセが天に上げられた後、イエスさまが一人そこに残り、弟子たちが馴れ親しんだ人の子に戻られたという、それこそこの出来事の中心メッセージであると聞きました。一人残られたと、それは、イエスさまが十字架の道を選び通そうと決意されたことを意味しました。これまでにも十字架への道を歩もうと決意されていたイエスさまでしたが、どこかにかすかな迷いがあったのでしょうか。この山に登って来られたのは、その迷いと向き合うためではなかったかと想像するのです。父君が遣わされたエリヤ、モーセと話すことで、父君の御旨を再確認したイエスさまに、もう迷いはありません。今朝は9:37-50からですが、「次の日」(37)、つまり「イエスさま変貌の一夜が明けた」ということですが、イエスさまは山を降りて来られます。それは、ガリラヤ地方を素通りしてエルサレムに向かう、まさに十字架への道でした。ピリポ・カイザリヤの町まで降りて来た時のことでしょう。大勢の群衆がイエスさま一行を迎え、その中からひとりの人が叫んで言いました。今朝のテキストです。

 「先生。お願いです。息子を見てやってください。ひとり息子です。ご覧ください。霊がこの子に取りつきますと、突然叫び出すのです。そしてひきつけさせてあわを吹かせ、かき裂いて、なかなか離れようとしません。お弟子たちに、この霊を追い出してくださるようお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした」(38-40) 現代風に言えば「てんかん」のようです。幼い頃から(マタイ)だったようですが、今はもうかなり重症に陥っています。あの長血を患った女のように、何人もの医者に診てもらったが直らない。日に日に悪化していく子どもの病気に、父親は、このままでは死んでしまうかも知れないと心配でたまらず、イエスさまのところに来たのでしょう。マタイやマルコの記事と比べてみますと、その症状描写には医者ルカの目が働いているようです。

 この父親がイエスさまに望みを託したのは、恐らく、町に残った弟子たちが何人もの病人を癒したことによるのでしょう。彼らはすでに遣わされた町々村々で、何人もの病人を癒した実績を持っていましたから、その評判を聞いて、彼も弟子たちのところに息子を連れて来ましたが、何故か弟子たちはその子の病気を直すことが出来ませんでした。ならば彼らの先生イエスさまにと、考えたに違いありません。そして、ようやく戻って来られたイエスさまに向かって、大声で叫びました。


U 十字架への道筋が

 経緯を聞かれたイエスさまは言われました。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしなければならないのでしょう」(41) 弟子たちになのか、その時代の人たち全体に向かってなのかはっきりしませんが、恐らく、神さまへの信頼に欠ける人々に思わず洩れた嘆きのことばだったのでしょう。病気が癒されるとは、癒すお方・神さまへの信頼に裏付けされてのことです。マルコには、「『もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください』『できるものならと言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです』『信じます。不信仰な私をお助けください』」(9:22-24)という、父親とイエスさまの会話が収録されていますが、ルカは、この父親の中にそんな神さまへの不信仰を見たと思われます。ルカはその、不信仰な時代ということだけを浮き彫りにしているようです。きっと、43節以降の十字架の予告に関連させてのことでしょう。ルカの関心は、奇跡を語ることにあったのではなく、この出来事を通して、イエスさまの十字架への道筋が一層明らかになることではなかったと思われます。

 「あなたの子をここに連れて来なさい」(41)「その子が近づいて来る間にも、悪霊は彼を打ち倒して、激しくひきつけさせてしまった。それで、イエスは汚れた霊をしかって、その子をいやし、父親に渡された」(42) 現代の医者ですと、イエスさまがなさったことも違ったふうに受け止めたと思いますが、ルカはその子の父親が感じたように、その子の病気の原因を悪霊に帰し、そのようにこの記事をまとめました。ルカは感じていたのでしょう。その子に取り憑いた悪霊は、十字架の道を選ばれたイエスさまに向かってあらん限りの抵抗を示したのだと。そして、その戦いを見守る回りの人たちの、息をのむほどの緊張感をもルカは共有していたと感じられてなりません。ルカだけが、「人々はみな、神のご威光に驚嘆した」(43a)とこの出来事を締めくくりますが、十字架への道を歩み始めたイエスさまの、それは、サタンに対する圧倒的な力を証言するものではなかったでしょうか。


V 不信仰の時代に主を

 「イエスのなさったすべてのことに、人々がみな驚いていると、イエスは弟子たちにこう言われた」(43b)と次の段落が始まりますが、この段落は二回目(ルカだけ)のイエスさま受難の予告となっています(一回目は9:22)。「なさったすべてのこと」には他の奇跡も含まれているとして、これは別の機会に語られたものではないかと考える人たちもいますが、ギリシャ語本文の言い方から、ピリポ・カイザリヤの出来事の直後のこととしていいかと思われます。そうしますと、まだイエスさまの回りには大勢の群衆が群がっており、その中で、イエスさまは弟子たちだけに話しかけているのです。いかにも不自然な場面ですが、この場面を少し手探りしてみましょう。

 驚嘆したのは弟子たちも同じでした。ただ、弟子たちは、変貌山での出来事の本当の意味をまだ理解していませんでしたから、一回目の受難予告「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして、三日目によみがえらねばならないのです」(9:22)に心を痛め、不安を覚えていたものと思われます。ですから、てんかんの少年が癒された時、それほどの力を行使されたイエスさまに驚きつつ、安堵したのではと想像するのです。忌まわしい十字架に向かうお姿ではなく、私の主であり、メシアであると告白したばかりのお方であったと、断固、悪霊を退けられたお方に、ほっとしている弟子たちの様子が浮かんできます。ところがイエスさまはこう言われました。「このことばをしっかりと耳に入れておきなさい。(なぜなら=原文)人の子は、いまに人々の手に渡されます」(44) 「このことばを」は「これらの……」と複数の言い方で、一回目の受難予告をも指していますが、これだけを聞いた群衆には何のことか分からなかったでしょう。マタイやマルコはこの記事を一回だけのものとし、ピリポ・カイザリヤの出来事から少しずらして、よみがえりのことにも言及させています。それは、群衆の中で弟子たちだけにという不自然さを回避するには役立っていますが、ピリポ・カイザリヤの出来事を受難のこととは無関係にし、弟子たちの不安にも触れていません。恐らく、受難予告はルカの記事のように二回、そして二回目はこんなにも端的に語られました。多くの人たちには何のことか分からなかったでしょうが、弟子たちにはおぼろげにではありましたが、イエスさまのお気持ちが伝わっていったものと思われます。サタンに対する圧倒的な力を示したからといって、イエスさまが十字架におかかりになる決意に変更はなかったのです。

 「しかし」とルカは続けます。「弟子たちは、このみことばが理解できなかった。このみことばの意味は、わからないように、隠されていたのである。また彼らは、このみことばについてイエスに尋ねるのを恐れた」(45) 彼は、弟子たちのおぼろげな理解に、イエスさまが嘆かれた「不信仰の時代」を重ねたのでしょう。イエスさまが十字架に赴かなければならなかった不信仰の時代、それは現代にも見事に一致するではありませんか。しかし、そこにはよみがえりの希望も語られているのです。これこそ、混迷を極める今、私たちが必死に追い求めているものではないでしょうか。今、イエスさまを信ずる信仰こそがあなたにとって必要なのだと、ルカのメッセージを聞いていきたいと思います。