ルカによる福音書

44 残られたイエスさまを

ルカ 9:28−36
イザヤ 49:1−3
T 変貌山の出来事

 「これらの教えがあってから八日ほどして、イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために山に登られた」(28) 今朝のテキストは「変貌山の出来事」と呼ばれる9:28-36ですが、これは、ペテロの告白が為されたピリポ・カイザリヤからまだ北上し、その付近の最高峰ヘルモン山に近い高い山でのことだったようです。三人の弟子たちを伴ったのは、恐らく、これから起こるであろうことの証人という意味合いがあったのでしょう。この記事はマタイ、マルコのいづれもが取り上げていますが、「八日」「三人の弟子たちの名前の順序」「祈るために」など、この28節だけを見ても、ルカの記事はマタイ、マルコとはかなり違っていますので、別資料からのものではないかと推測されています。別資料を用いたかどうかは分かりませんが、少なくともルカには彼なりの独特の編集方針があったようです。そのことも踏まえて、ルカのメッセージを聞いていきたいと思います。

 「祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた」(29) この様子を補足してみましょう。「御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった」(マタイ17:2)「その御衣は、非常に白くなり、世のさらし屋ではとてもできないほどの白さであった」(マルコ9:3) ルカ自身も補足しています。「ペテロと仲間たちは眠くてたまらなかったが、はっきりと目がさめると、イエスの栄光と、イエスといっしょに立っているふたりの人を見た」(32) 補足してもよく分かりませんが、きっと、イエスさまの栄光の様子は、これを伝えた三人の弟子たちにもどう表現していいか分からないほどの輝きだったのでしょう。旧約聖書には、「モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した」(出エジプト3:6)とか、「ああ。私はもうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王をこの目で見たのだから」(イザヤ6:5)などの記事があり、神さまの栄光を見た者は死ぬとされていました。それなのに、弟子たちはその栄光を見たのです。その表現が貧しかったとしても仕方がありません。それよりも、そんな栄光の主に、私たちもやがてまみえることが許されている光栄に思いを馳せたいものです。


U 地上の王国ではなく

 恐らくイエスさまが祈っておられる間中眠り込んでいた弟子たちが目を覚ましますと、栄光のお姿に変わられたイエスさまがエリヤ、モーセと話しておられました。彼らは、「栄光のうちに現われて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期についていっしょに話していたのである。ペテロと仲間たちは、眠くてたまらかったが、はっきりと目がさめると、イエスといっしょに立っているふたりの人を見た」(31-32)と証言します。これはルカだけの記述ですが、「話していた」とあるのは、(イエスさまが聞き手で、)エリヤとモーセがイエスさまに話していたということのようですので、イエスさまの十字架は昔からの神さまの救いのご計画であったと言いたいがために、この記述になったのでしょう。「栄光のうちに現われて」がエリヤとモーセにかかっていることも、彼らが神さまから遣わされてイエスさまのところにやって来たことを物語っています。人の子として(9:22)十字架におかかりになるイエスさまに神さまのみ心を伝えるためには、天使よりも彼らのほうが適役であるとの神さまのご判断だったのでしょうか。後半の32節は、この証言が夢や幻ではないことを証拠立てるために、その時の自分たちの状況を証言として加えたものと思われます。弟子たちは何度もその時の状況を繰り返し思い出しながらメモし、それがこの記事の原資料になったのでしょう。

 ところで、イエスさまが栄光のお姿に変わられたことは何を意味しているのでしょうか。イエスさまはもともとそのお姿でした。それなのに、人の罪を救うために人の姿をとって私たちのところに来られたのです。「栄光のうちに現われたモーセとエリヤ」に応答するために本来のお姿に戻られた、それがこの変貌ではなかったかと思われます。この変貌を見た弟子たちは驚き、恐怖におびえながらも、ある決意をもって一つのことを提案しました。「先生。ここにいることはすばらしいことです。私たちが三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ。モーセのために一つ、エリヤのために一つ」(33) この幕屋を「寒さを防ぐもの」と考える人たちが多いのですが、恐らくそうではありません。本来のお姿になられたイエスさまが、何も好き好んで十字架への道を歩まなくても、そのままここに留まり、この場所をエリヤ、モーセをも加えて栄光ある神さまのみ国にするなら、イエスさまの目的は実現するではないか。そのために、「自分たちが、その記念碑とも言うべき幕屋を造ります」と、彼らの願いは真剣でした。「ふたりがイエスと別れようとしたとき」とルカは珍しく状況説明を入れていますが、二人を引き止めようとするほど、その思いつきに彼らは夢中になったのでしょう。


V 残られたイエスさまを

 しかし、幕屋云々は全く聞かれなかったばかりか、ペテロがそんなことを言っているうちに、「雲がわき起こってその人々をおおった」(34)と、彼らの熱心をも包み込んで跡形もなく消え去ってしまいました。この雲は明らかに神さまのご臨在を示すものでしょう。「弟子たちは恐ろしくなった」(34)というのは、イエスさまがエリヤ、モーセと一緒にいなくなってしまうのではないかという恐れでした。エリヤはかつて死を知らずに天に引き上げられた唯一の人でした(T列王記2:11)。もしかしたら、彼ら自身の死の恐怖をも感じたのかも知れません。いづれにしても、彼らの思いつきは頓挫してしまいます。

 そして、ペテロがごちゃごちゃ言っているその場面が一変します。雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」(35)という声がしました。その前に、奇妙なことばが付け加えられています。「ペテロは何を言うべきかを知らなかったのである」(33) これは福音書記者、ルカ、マルコ(マタイは無視)が加えたものではなく、恐らく、後になってこのことを回想した三人の弟子たちが、その時には全く理解しなかったけれども、変貌山の出来事はまさに神さまのご計画の何たるかを明らかにするものであったと、そんなメッセージを込めた彼ら自身の証言ではなかったかと思うのです。神さまご臨在の記事は、神さまのご計画が実現に向けて進み始めたことを明らかにしたものでした。雲の中から聞こえたことば「これは、わたしの愛する子……」は、イエスさまがバプテスマを受けられた時にあったものと同じ(ルカ3:22)ですので、その計画はイエスさまを中心にしてのことであったと、後になって、落ち着いて回想した弟子たちにはっきりしたのではと思われます。きっと、彼らはバプテスマのヨハネの証言を聞いていましたから、後半の「わたしはこれを喜ぶ」(3:22)と「わたしの選んだ者である」(34)の違いについて熟考したことでしょう。バプテスマを受けられた時、それは救い主としてスタートラインに立たれたイエスさまへの父君からの祝福のことばでした。今、改めてその祝福が繰り返されたのはイエスさまの何に対してだろうと考えた時、それは、決して栄光のお姿になられたことにではなく、エリヤとモーセが雲と共にいなくなってしまったのに、イエスさまが彼らの慣れ親しんだお姿に戻って残られたことに対してなのだと、ようやく気がついたのです。それは、イエスさまが十字架の道を選ばれたことへの祝福でした。ですから、「この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった」(36)と、マタイ、マルコ、ルカ、いづれもがそれをこの記事の締めくくりに置いているのです。

 「彼の言うことを聞きなさい」(34)は、一人の預言者が起こされる「彼に聞き従わなければならない」(申命記18:15)とあるモーセの約束を思い出させます。弟子たちは、恐らく、イエスさま復活のしばらく後にこの出来事を公表したと思われますが、主のことばに聞き従って教会に仕える者となったことを思い出しているのでしょう。ルカとともに私たちもと願おうではありませんか。