ルカによる福音書

43 あなたは私の主

ルカ 9:18−27
詩篇 46:1−11
T わたしのことをだれと

 「さて、イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちがいっしょにいた。イエスは彼らに尋ねて言われた。『群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。』彼らは、答えて言った。『バプテスマのヨハネだと言っています。ある者はエリヤだと言い、またほかの人々は、昔の預言者のひとりが生き返ったのだとも言っています。』イエスは、彼らに言われた。『では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』ペテロが答えて言った。『神のキリストです。』」(9:18-20) 前回のベッサイダ行きは、イエスさまがガリラヤを離れてエルサレムを目指すことになるその発端であると触れました。今朝の記事は、エルサレムを目指すイエスさまが何故か一度北上し、ヘルモン山付近の高い山でモーセ、エリヤとお会いになるのですが、その途中、ピリポ・カイザリヤ辺りで使徒たちと交わされた会話から始まります。使徒たちにとって、群衆の動向はいちいち気になるところでしたから、きっと、道々イエスさまに関する噂などを収集していたのでしょう。このとき、「(イエスさまは)バプテスマのヨハネである」「エリヤだ」「昔の預言者の一人」などの噂が広まっていたようです。ですから、このときの彼らの答えは、ヘロデが家来たちに集めさせた情報(9:7-8)と一致しています。そんなことはイエスさまにとってどうでもいいことでしたが、使徒たちが道々こそこそと聞き回っているその関心をきっかけに、イエスさまは今、何をもって彼らがイエスさまの弟子であるというのか、彼らにとって最も重大なテーマを考えさせようとしたのではないでしょうか。それがこの会話になったと思われます。このテーマは、現代の私たち信仰者にとっても、極めて重要な問いかけであると覚えておきたいものです。

 ルカの記事はマタイに比べて非常に短く、ピリポ・カイザリヤという地名を省き、告白の言葉さえ短くしているほどです(マルコも短いのですが、ルカに倣ったためでしょう)。恐らく彼は、説明的部分を削ることで、この会話の中心部を語りたかったのでしょう。短くすることで、この記事の大切さを語ることに全力を注いでいるようです。ですからこの記事は、決してイエスさまと使徒たちの歴史の一コマなどではなく、イエスさまと使徒たちの出会いがここで一つのクライマックスを迎えたと言っていいのではないでしょうか。そのクライマックスが、ペテロの信仰告白でした。


U 信仰の熟成を

 ところで、「神のキリストです」というこの告白は、マルコの「あなたはキリストです」に比べますと少々饒舌なと思われますが、説明的部分を削除したはずのルカが、なぜこの部分を残したのでしょうか。マタイでは「あなたは、生ける神の御子キリストです」(16:16)となっており、ルカの言い方が、「神の」だけを残したものとしますと、神さまがお定めになったのではないキリストもいたのかと疑問が生じます。その頃、イエスさまの時代のユダヤには、自称他称のメシアが無数に出ていましたから、この「神のキリスト」は、ルカにとってまさに「その通り」という意識なのでしょう。そして、ルカの時代、異邦人の地に広がった教会では、自分たちの考え方一つでイエスさまの福音をどのようにでも変化させるうる可能性を秘めていましたから、私たち人間がイエスさまを規定していく道筋が大幅に広げられていたわけです。現代はまさに、そんな人間的キリスト像が闊歩している典型的な時代といえましょう。ルカは、教会からそんな可能性を除き去っておきたかったのではと思うのです。ですから「神のキリスト」は、決してマタイの「神の」を残したものではなく、ルカは、キリストに「神の」と加えることで、イエスさまこそ神さまがお定めになったメシア・キリストだと主張しているのです。イエスさまは神さまの永遠のご計画から出た救い主キリストであって、人間の造り上げた小賢しい虚像ではないのです。使徒たちは、イエスさまに導かれて、この重大な告白に到達したと言えるでしょう。もっとも、この後にも彼らはたくさんの過ちを犯し(ルカは取り上げませんでしたが)、イエスさまが言われたことを否定してたしなめられています(マタイ16:22-23)。私たちの信仰にも彼ら以上に人間のそんないい加減さがつきまといますが、「神のキリスト」という告白は、私たちへの神さまの導きであるとしっかりと受け止めておきたいのです。

 「するとイエスは、このことをだれにも話さないようにと、彼らを戒めて命じられた」(21) 何故でしょうか。マタイやマルコでは「戒められた」となっていますが、ルカはわざわざ「戒めて命じられた」と二重に「話してはいけない」ことを強調しています。原文では次の「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして3日目によみがえらねばならない」(22)との間にピリオッドがないのです。それは、イエスさまの十字架とよみがえりが、いかなる意味においても人間の範疇を超えた神さまのご計画によるのだということを、信仰者たちが自分の中で熟成して欲しい……、そんなルカの願いが聞こえてくるではありませんか。


V あなたは私の主

 それはイエスさまの願いでもありました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。しかし、わたしは真実をあなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいます」(23-27) ここは脈絡のない唐突なものに聞こえるかも知れませんが、マタイ、マルコ、ルカと三人の福音書記者がいづれもペテロの告白に続く一連の記事として取り上げていますので、恐らくイエスさまが、ご自分の受難宣言(22)に関連して言われたことなのでしょう。ですから、「日々十字架を負い」は、多くの人たちが「私たち自身の苦難」と言ってきた一種の精神訓話的理解ではなく、今まさにそこを目指して歩み始められたイエスさまご自身の、十字架を負う者こそイエスさまの弟子なのだと聞かなければなりません。すでにイエスさまは、ご自分の受ける苦難がローマの極刑・十字架であろうと予測していたと思われます。そしてその苦難は、弟子たちにも襲いかかってくることでしょう。キリスト教初期の歴史は迫害と殉教の歴史と言っていいかと思いますが、今、弟子たちはその時代に身を投じようとしているのです。そんなスタートラインに着いた者たちが、魂の奥底でイエスさまを信じる信仰を熟成させないでは弟子たる覚悟は空転するだけだ、と問われたように思われてなりません。現代の私たちに、その熟成と覚悟があるでしょうか。心して聞きたいものです。

 ところで、ここわずか数行の中に、聖書の中心・希望の福音が詰まっていることにお気づきでしょうか。イエスさまの「死(十字架)」と「よみがえり」と「再臨」のことですが、それは決して冷たいキリスト教(宗教)教理ではありません。私たちは、十字架に罪を赦され、福音の証人として召されたこのいのちをイエスさまに差し出す時、イエスさまのよみがえりに与る者となり、神さまのみ国に招かれる幸いを喜ぶことが出来るのです。26-27節に言われる励ましと警告は、そのような励ましと警告の中で聞かなければなりません。現代、「多くの人たちの愛が冷たくなる」(マタイ24:12)・イエスさまの再臨の時が、刻々と近づいて来ました。その時主のみ国で、「あなたはわたしの恥である」と言われることがないように、「静まりて、我の神たるを知れ」(詩篇46:10)と、何よりも現代、「私たちにとってイエスさまはどなたか」と自らの魂に問いかけていきたいのです。「あなたこそ、私の主キリストです」という告白を確かなものとするために……。