ルカによる福音書

40 主とともにある平安に

ルカ 8:43−48
イザヤ 61:1−3
T 絶望の中で

 「12年の間長血を患った女」のことは、ヤイロの娘のよみがえりという記事に挟まれているためか、脇役のように取り扱いがぞんざいになる傾向があるようです。手許にある注解書のいづれもほんの数行しかこの記事のためにスペースを取っていません。しかし、イエスさまはこの女性のために立ち止まられました。今朝、私たちも立ち止まって、この女性のことを考えてみたいと思います。

 「ときに、12年の間長血をわずらった女がいた。だれにも直してもらえなかったこの女は、イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。すると、たちどころに出血が止まった」(43-44)と、この出来事が始まります。ちょうどイエスさまがヤイロの家に向かおうとしていた時でした。「長血」というのがどんな病気なのかはっきりしませんが、女性に特有の、かなり重い病気だったのでしょう。「だれにも直してもらえなかった」とルカの記事は簡潔ですが、マルコは、「この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった」(5:26)と記しています。古代社会にはそんな女性が多かったのでしょうか。ルカから1700年ほど遡るモーセの時代のレビ記には、血の流れ出ている間その女は汚れているとして、人前には出られない様子が描かれています(15:19-31)が、それはイエスさまの時代にもユダヤ人の現実として適用されていたのです。その人は経済的に追い詰められていたばかりではなく、ユダヤ人の社会的宗教的生活からも排除されていました。それは彼女が、らい病患者や罪を犯した前科者と同様に、ユダヤ人社会に受け入れられず、神さまとの関係も断ち切られ、死んだ者とされていたことを意味します。彼女には、現在にも未来にも希望がなかったのです。そんな絶望につぐ絶望の日々が12年間も続いていました。彼女にとって、それは永遠とも感じられる時間ではなかったでしょうか。ある意味で、ヤイロの絶望を上回るものではなかったかと思われます。

 彼女は、きっと必死の思いでイエスさまにお願いする機会を探していたのでしょう。イエスさまの噂は彼女の耳にも届いていました。もしかすると、イエスさまが病人たちを直している現場を目撃していたのかも知れません。イエスさまにお願いすれば、必ず直してくださるにちがいない。そして、その機会が巡ってきました。大勢の群衆にもまれながら、偶然にイエスさまの近くまで来ていたのでしょう。夢中で人混みをかき分けながらイエスさまの後ろに回り、そっと着物のふさに触りました。


U イエスさまの着物のふさに

 「着物のふさ」とありますが、これは、「イスラエル人に告げて、彼らが代々にわたり、着物のすその四隅にふさを作り、その隅のふさに青いひもをつけるように言え。……あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こし、……神の聖なるものとなるためである」(民数記15:38-40)とあることによるもので、ユダヤ人のラベルみたいなものでした。祭司とか律法学者、パリサイ人といった人たちはそのふさを長くして(マタイ23:5)、いかにもそれを権威の象徴のように立派にしていましたが、イエスさまのそれは、ガリラヤ全土を巡り歩き、時には野宿するようなこともあって古び、すりきれて、もはやふさとは呼べないような代物ではなかったかと想像します。彼女はそんなイエスさまのふさにそっと触れました。なぜふさだったのでしょうか。ふさには一種の魔力がひそんでいて……、などの迷信からふさを選んだとする見解も根強いのですが、恐らくそうではありません。ユダヤ人の着物は長衣で、すそにあるふさは当然くるぶしの辺りにあります。彼女はイエスさまの足もとにかがみ込みましたから、触れたところがふさだったのです。大勢の群衆に囲まれながら歩いているイエスさまにかがみ込んで触ろうとしたのですから、きっと難しかったろうとは思いますが、イエスさまがゆっくり歩いておられたから出来たのかも知れません。ともかく、彼女は徹底的に身を低くしてイエスさまに触れようとしたことがお分かり頂けるでしょう。イエスさまには気づかれずに、しかしイエスさまの前に身を低くして、彼女は触ることに全身全霊を込めたのです。それがふさでした。

 すると、たちどころに出血が止まりました(44)。そして、そのことに気づかれたイエスさまは、そこに立ち止まってしまわれます。「わたしにさわったのは、だれか」(45) 彼女はそこを逃げ出す機会を失ってしまいました。そこに立ちすくみ、いや、かがみ込んだまま、立つことが出来なくなってしまったのかも知れません。その間にヤイロの娘が亡くなってしまうのですが、イエスさまは、今、そこにうずくまった彼女の魂を大切なものとして見つめているようです。


V 主とともにある平安に

 おどおどした彼女に目を留めながらイエスさまは、彼女が「私です」と申し出て来るのを待っておられたのではないかと思われます。それは、彼女のためでした。もし、彼女がこっそりとそこを離れたとしても病気は直っていましたが、ユダヤ人社会は彼女を受け入れたでしょうか。らい患者の病いを発病も回復もそれを認定するのは、医者ではなく祭司でした。ユダヤ人の宗教界にはそんなシステムが生きていたのです。イエスさまはそのシステムをスキップして、彼女に社会的回復を認定する機会を与えようとしておられたのではと思われてなりません。今、ここで彼女の病気からの回復を証言するなら、ここにいる大勢の人たちがその証人となってくれます。彼女がそんな計算をしたとは考えられませんが、気丈にも彼女は、自分の汚れていることをひた隠しに隠しながら、人混みを利用してイエスさまに近づいて来ました。しかし、その勇敢さと次の行動には天と地ほどのギャップがあります。彼女は今、自分を見つめているであろうイエスさまの目を痛いほどに感じていました。

 彼女は「隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した」(47)のです。それはすべてをご存じである主・神さまの前に出た者の姿でした。きっとその重い病が直った時、彼女はイエスさまがメシアであり、このお方こそ自分の主であるとはっきり感じたのではないでしょうか。卑屈(勇敢だったのに追い詰められた彼女の今の姿)にうずくまった姿勢から解き放たれて、彼女はひれ伏したのです。それは、信仰告白とでも言える彼女の姿勢とことばでした。

 ユダヤ人として彼女は、シナゴグでの礼拝に加わることを禁止され、その意味で神さまの前に死んだに等しい者でした。前回、神さまのみ国に招かれて永遠に生きるという「いのち」に触れましたが、今朝は、神さまの前での「死(永遠の死)」ということについて触れていきたいと思います。その死は、神さまの前から追い払われ、神さまなしの(叫びを聞いてくれる方のいない)どこまでも続く苦しみの世界に捨てられることなのです。黙示録が「火の池」(20:14)と表現しているのは、その死を指しています。ユダヤ人社会から絶縁を言い渡されたこの女性は、そんな神さまから「あなたを知らない」と言われるところに行け、と言われたと理解していました。彼女の最も深い絶望はそこにあったのではないでしょうか。しかしイエスさまは、死んだに等しいとは彼女のその絶望であったと、そのところを見ておられました。彼女は、決して神さまから見捨てられてはいませんでした。イエスさまは彼女に救いの手を差し伸べて、言われました。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい」(48) 「あなたの信仰……」とは、病気が直ったというより、「あなたの叫びは神さまに届いている」という、神さまご自身としてのイエスさまの宣言と聞こえてきます。ですからイエスさまは、「安心して行きなさい」と言われました。King James訳は「Go in peace」と訳していますが、これは、「あなたを神さまが共にいてくださる平安に招く」というイエスさまご自身の宣言であると聞えてきます。私たちも、その平安に招かれているという幸いに心を馳せたいではありませんか。