ルカによる福音書

4 マグニフィカート

ルカ   1:39−56
Tサムエル 2:1−10

T 主の恵みに触れる日々を

 神さまの不思議によって誕生することになるイエスさまとバプテスマのヨハネ、その二人の子どもの母たち、マリヤとエリサベツが出会いました。「そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした」(39-40)と、その出会いの記事が始まります。マリヤがなぜエリサベツに会いに行ったのか、ルカは直接何も記していませんので推測ですが、少し触れておいたほうがいいでしょう。まるでその謎を解く鍵のように、ルカは「急いだ」(39)と「3ヶ月ほどエリサベツと暮らした」(56)と二つのことを記しています。

 ルカは極めて唐突に「急いだ」と記しています。ところで、イエスさまご降誕の関連記事を記したマタイの福音書には、ヨセフがマリヤの妊娠を知って苦悩する記事があります。そこに「聖霊によって身重になったことがわかった」(1:18)とあるのは、恐らく、マリヤがヨセフに話して分かったということなのでしょう。そして、3か月というのは、女の人が身重になったことを実感し始める期間ですね。すると、伝えた時期は、彼女がナザレに帰って来てからのことと思われます。ルカのこの記事は、恐らくヨセフに話す前のことでした。マリヤはヨセフと婚約していましたから(ユダヤで婚約とは法的な結婚を意味していた)、「聖霊によってみごもった」ということをヨセフに話さないわけにはいきません。どう話したらいいのか、まだうら若い女性のことです。そのことを相談しようと、「急いで」ナザレを出立し、エリサベツのところに行ったのではないかと想像するのです。

 ところが、ルカはそんなことには全く触れず、マリヤとエリサベツが出会い、そして彼女たちが神さまを賛美したところだけを取り上げているのです。その賛美のクライマックスが46-53節の「マリヤ賛歌」になりました。マリヤにとって、エリサベツとともに過ごした3か月は、神さまの恵みだけを思う日々になったのでしょう。どのようにヨセフに伝えるのかということなど、どこかに吹き飛んでしまって、ただすべてのことを神さまにゆだねる信仰が彼女の中に育っていったと感じられてなりません。その3か月の、彼女の喜びが見えるようではありませんか。


U 神さまのご臨在のもとに

 マリヤの挨拶を受けたエリサベツが言います。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」(42-45)

 エリサベツは、マリヤがみごもっている(恐らくまだ二週間にも満たない)ことと、その子が自分の主であることをはっきりと認識していました。「主」というのは、恐らく、旧約的な意味での「ヤーヴェ」、つまり神さまご自身を指しています。この記事では、そのことを彼女はマリヤに会った時に分かったという印象を受けますが、彼女の信仰告白とも言うべきこの言葉には伏線があります。ルカはその前に、「エリサベツは聖霊に満たされた」と加えているのです。そして、彼女の胎内で「ヨハネがマリヤの声を聞いて躍り上がった」と二回(41、44)繰り返されていることも、「聖霊に満たされた」(15)ヨハネがエリサベツの聖霊体験を強調しているのでしょう。ここにはマリヤの言葉が何もありませんので、どのような会話があったのか分かりませんが、恐らくエリサベツは、マリヤが話した以上に彼女のことを理解しました。「聖霊があなたの上に臨み」(35)と言われたマリヤと「聖霊に満たされた」エリサベツは、神さまが一緒にいてくださるというその同じところで心が通い合ったと想像するのです。言葉が分からない外国人同士でも、クリスチャンだということで心が通い合う、そんな経験のある方も多いと思いますが、神さまを信じる信仰には不思議とそのようなところがあります。マリヤへのエリサベツの祝福は、そのところで聞かなければなりません。そして、マリヤもエリサベツの信仰を見て、神さまが自分のすぐそばに居てくださる、それだけで十分であると感じたのでしょう。


V マグニフィカート

 エリサベツの信仰に、マリヤもまた信仰をもって答えました。マリヤの言葉は他にもあったのでしょうが、ルカは、「マリヤ賛歌」(46-55)と呼ばれるところだけを記しました。これは古くからラテン語聖書での冒頭のことば「Magnificat anima mea Dominum」をとって「マグニフィカート」と呼ばれてきましたので、私たちもその伝統に倣うのがふさわしいでしょう。「マグニフィカート」とは、「崇める」という意味です。

 この時のマリヤは、20才前後?の若くて貧しい田舎娘……とは思われないほど、言葉も信仰も視点の広がりも力と輝きに満ちています。そんなにも彼女を輝かせたその源を探ってみたいと思うのですが、これは、第一サムエル2章にあるハンナの賛歌や賛美の詩篇などに似ていると指摘されています。恐らくマリヤはエリサベツとともに、彼女たちと似たケースとしてハンナの賛歌や詩篇などを読み、その賛歌の形式を踏襲しながらこのマグニフィカートを歌い上げたのでしょう。彼女は、全身全霊を込めて神さまを賛美し、彼女に起こった出来事を素直に受け止め、イスラエル民族全体にまで目を広げて、神さまの約束の確実なことを繰り返し歌い上げます。

 いくつかのことをピックアップして見ていきたいのですが、第一に「わがたましいは主を崇め、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」(46)という冒頭の賛美からです。「たましい」と「霊」の違い?とか、マリヤの「救い主」って?といった細かな部分はいいでしょう。マリヤは、神さまがまるで自分のすぐ隣に座っておられるかのように、その暖かさに触れたのです。彼女は、自分の髪をやさしくなでてくださる神さまを、いくらかの緊張感とともに、目をきらきら輝かせながら見つめています。そんな彼女の高ぶりがここから想像できるようです。

 そして二番目に、「心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げ、富む者を何も持たせないで追い返されました」(52-53)とあるところです。これは、ハンナや預言者や詩篇の記者たちにも見られるものですが、ユダヤ人社会では富む者や権力を持つ者が神さまから祝福されているという価値観が一般的でしたが、それが、マリヤの中で、弱者こそ神さまから祝福されるという価値観に変っています。イエスさまはその価値観を生き抜いてこられました。マリヤはそのイエスさまの生きざまを見つめていたのでしょうか。

 三番目は「アブラハムに語られたとおりです」(55)というところですが、イスラエルへの神さまの約束を、はるか千何百年か前までさかのぼりながら、彼女はその約束が今も神さまに覚えられていると告白しているのです。このマグニフィカートには、イエスさまをみごもったことへの直接的な言及はありませんが、「主はこの卑しいはしために、目を留めてくださった。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう」(48)、「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました」(49)と言うように、マリヤ自身に起こったことを、「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました」(54)と、イスラエルへの神さまのあわれみの出来事であると受け止めているのです。イエスさまのお生まれは、まさにイスラエルの救いの出来事でした。彼女のその視点の広がりと、「今」神さまがなさろうとしていることを聞こうとする姿勢が、ルカの信仰の琴線に触れて共鳴しているような気がしてなりません。

 「私は主のはしためです。あなたのおことばどおりこの身になりますように」という告白も含めて、きらきらと輝いているマリヤ。それはマリヤの信仰の輝きではないでしょうか。私たちも、マリヤやエリサベツや記者ルカに倣って、輝くような信仰の生き方を志していきたいではありませんか。