ルカによる福音書

39 イエスさまの問いかけに

ルカ   8:40−56
出エジプト 3:7−15
T 私たちにも弟子の訓練を

 講解説教は堅苦しくてとお感じの方も多いかと思いますが、どうか腰を据えてお聞き頂きたいと願います。噛めば噛むほど味が出て来ると、お分かり頂けるのではと期待しています。

 今朝はルカ8:40-56、会堂管理者ヤイロの娘のよみがえりの記事です。「さて、イエスが帰られると、群衆は喜んで迎えた。みなイエスを待ちわびていたからである」(40) この時期、ガリラヤ地方の民衆はイエスさまの回りに熱狂的に群がっていました。だからでしょうか、イエスさまを律法の敵と見なして追い落としをたくらむ、パリサイ人や律法学者たちの憎しみは一層募っていたようです。「イエスが帰られると」とあるのは、対岸のデカポリス地方からの帰還を言っているのでしょう。そこに行かれたのは、しばしの休息を取ろうとして、おそらくベッサイダ付近に行こうとしたところ、たまたま暴風で舟の針路が狂ったためでしたが、イエスさまにとっては初めての土地だったようです。ともかくも、そこでの出来事は、イエスさまと弟子たちの行動半径をほんの少し広げることになりました。パリサイ人たちの憎しみもあってか、イエスさまのガリラヤ地方を去る時が近づいており、それに合わせて弟子たちの訓練に力が注がれてきました。9章では使徒たちを民衆の中に送り出し、その訓練の成果を問おうとしています。訓練の最終章に入り、彼らにいくつかの不思議(神さまの力)を経験させようと(8:22-56)最後の仕上げにさしかかった、それが今朝のテキストです。

 イエスさま帰還のニュースが聞こえたのでしょう。「するとそこに、ヤイロという人が来た。この人は会堂管理者であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して自分の家に来ていただきたいと願った。彼には12才くらいのひとり娘がいて、死にかけていたのである。イエスがお出かけになると、群衆がみもとに押し迫って来た」(41-42) めったに人名を上げないルカが、珍しくここで「ヤイロ」と名前を上げています。恐らく、彼が弟子たちに良く知られていたためと思われます。彼が管理者を勤めるカペナウムのユダヤ人会堂は、イエスさま活動の根拠地となっていましたから、もしかしたら彼は、初期教会の形成に重要な役割を担っていたのかも知れません。そうしますと、この出来事はもっと早い時期に起こったと言えそうですが、ルカはその記事をここに持ってきました。弟子の訓練は彼の時代の異邦人教会にも必要だとし、それをこの使徒たちの訓練に重ね合わせているのでしょう。そしてルカは、ヤイロはこの記事の中心人物の一人なのだと言っているようです。


U 決断からの始まりを

 ヤイロはイエスさまの足もとにひれ伏しました。会堂管理者は礼拝と教育の総責任者で町の名士ですから、めったなことで人の足もとにひれ伏すなど、そんな態度を取ることはありません。12才くらいのひとり娘というと、彼はまだ若い父親であり、その職は彼の父親から引き継いだものと思われます。ですから彼はパリサイ人の仲間であり、きっと、イエスさまとパリサイ人たちの確執もよくよく承知していたことでしょう。その代々の名士が、恥も外聞を捨てて、ひれ伏してイエスさまにお願いしました。「娘が死にかけています。どうぞおいでくださって娘の上に手を置いてやってください」(マタイ参照) 恐らく、これまでに何回もイエスさまのお話を聞いていたでしょうが、パリサイ人の仲間であり、町の名士でもある彼が、よくぞここでこのような決断をしたものだと感心します。若いから出来たのかも知れませんが、恐らく、カペナウムがガリラヤでのイエスさま活動の根拠地になったのも、彼のこの決断あってのことでしょう。すると彼が、娘が死んでしまった後に、それでもイエスさまが「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば娘は直ります」(30)と言われたことばを受け入れ、イエスさまの言いつけ通り子どもの部屋に誰も入れなかったことも、とことんイエスさまに従おうと決めた、彼の最初の決断によるのだということが見えてくるようです。

 彼の要請を聞かれたイエスさまがヤイロの家に向かう途中、事件?が起こります。12年間長血を患っていた女性が、群衆に紛れてイエスさまの着物のふさにさわったのです。「すると、たちどころに出血が止まった」(44)とあり、「だれかがわたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから」(47)と、イエスさまはそこに立ち止まってしまわれました。この女性のことは次回に取り上げたいと思いますので今回は触れませんが、その間にヤイロの娘は死んでしまいます。イエスさまは、まるでそうなることを願っているかのように、立ち止まったまま動きません。そう長い時間ではなかったと思いますが、仲間を裏切るほどの決断をしてイエスさまのところに来た父親にしてみれば、娘が危篤状態なのですから、気が気ではなかったでしょう。それでも催促がましいことは何一つ口にせず、彼はイエスさまが動き出すのをじっと辛抱強く待っています。


V イエスさまの問いかけに

 そうしている間に、ついに恐れていた現実が訪れました。ヤイロの家から使いが来て、「あなたのお嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすことはありません」(49)と伝えます。ヤイロの娘が危篤だというので来ていた身内の人なのでしょう。この口上を聞きますと、彼らはイエスさまにおすがりするというヤイロの決断を知っていました。ヤイロがその意志をはっきりさせて家を出て来たことが浮かび上がってきます。彼はもう後戻りが出来ないところにいたわけです。

 そんなヤイロの様子を観察していたのでしょうか、イエスさまは、「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります」(50) と言われました。ヤイロのことを何もかもご存じである主がそこにいらっしゃる。その主は現代も私たちのすぐそばにもいてくださる。そして、「わたしはあなたの悩みを見、あなたの叫びを聞いた。わたしはあなたの痛みを知っている」(出エジプト3:7)と声をかけてくださるのです。その声があなたに届いているでしょうか。その声を聞き、イエスさまの力強い慰めを受ける唯一の入り口が、イエスさまを信じる信仰であると覚えて頂けるなら幸いです。イエスさまは「そうすれば、娘は直ります」と言われました。これはルカだけが記したものですが、恐らく医者ルカの思いがこもった挿入なのでしょう。イエスさまに「起きなさい」と言われて彼女がすぐに起き上がったことも(55)、イエスさまが食事をさせるように言われたことも、彼女が生き返ったばかりではなく、死をもたらした根元の病気が癒されたことを意味しているのではと思われます。

 道の途中で、そのことがまだよく理解できていないヤイロでしたが、それでも聞き従おうと、進んで行かれるイエスさまと共に家に戻り、命じられたように、娘の部屋にいた人々にしばらく遠慮するように懇願しました。彼らは「娘のために泣き悲しんで」(52)と、もう葬式に取りかかっていましたので(ユダヤではすぐに葬る)あざ笑いますが、イエスさまは「死んだのではない。眠っているのだ」(52)と、神さまの領域に属する死の根本に触れます。黙示録は、死には肉体の死と第二(永遠)の死があると語っていますが、詳しいことは次回に譲ることにして、今朝は、イエスさまを信じる者たちが迎える死のことを覚えて欲しいと願います。その死は魂の眠りであって、やがて目覚めて神さまのみ国に迎え入れられ、永遠のいのちの営みが始まるというものです。ヤイロの娘の死はそのことのシンボルなのでしょう。イエスさまの「子どもよ。起きなさい」(54)と叫ばれたその叫びは、そのことを私たちに知らせる高らかな宣言であると聞こえてきます。娘が生き返ったことはすぐに知れ渡ってしまうのに、「誰にも話さないように」(56)と言われました。それは、ヤイロが永遠のいのちを与えてくださる神さまの前に、信じる者として立つチャンスということではなかったでしょうか。彼はパリサイ人たちの仲間でしたが、イエスさまにつくことを選びました。その決断に加え、「あなたはわたしを信じるか」と問われたのではないかと思われてなりません。そして、きっとヤイロは信じて弟子の一人に加えられたのだろうと想像します。彼の悲痛な叫び(祈り)は、神さまの耳に届いていたのです。