ルカによる福音書

38 その告白を私たちも

ルカ 8:26−39
イザヤ 54:7−8
T 医者ルカの証言から

 弟子たちの訓練・第一段階終了を目前に、ルカが取り上げたイエスさまの4つの奇跡の、今朝は二番目の出来事です。「こうして彼らは、ガリラヤの向こう側のゲラサ人の地方に着いた」(26)と、この出来事が始まります。前回も触れましたが、カペナウム辺りから舟で「向こう岸へ渡ろう」と言われる時、恐らくそれはテラコニテ地方のベッサイダを意図していたと思われるのですが、冬に突然吹いてくる冷たい突風で、大時化となった湖の真ん中で針路が狂ってしまったのでしょう。着いたところは、彼らが全く意図しなかったデカポリス・ゲラサ人の土地でした。そこはギリシャ人が入植して開拓された異邦人の土地であり、少数のユダヤ人もいましたが、大半はいろいろな民族が住む町々や村々だったのです。ユダヤ人社会からよそ者ではないかと冷たい目で見られがちのガリラヤ地方のユダヤ人たちでさえ、決して訪れることのないところでした。ガリラヤ地方のユダヤ人は、アッシリヤに滅ぼされた北イスラエル王国の末裔でしたが、北イスラエル王国滅亡後、征服者アッシリヤの政策によって諸外国から送り込まれた人たちとの混合民族でした。しかし彼らはユダヤ社会の一員として生きる決意をしていましたから、ユダヤ人としての習慣を守ることにはとても敏感だったろうと思われます。その彼らが決して交わろうとはしない異邦人、デカポリス地方はそんな人たちの地域でした。

 きっと、その地方に着いた時、弟子たちは上陸を躊躇しただろうと思われますが、そんな彼らにはお構いなく、イエスさまはさっさと舟を降りてしまわれます。イエスさまにはガリラヤ人のそんな拘りなど全くなかったのでしょう。ここで遭遇した出来事は、そんなイエスさまだからこその出来事なのかも知れません。「イエスが陸に上がられると、この町の者で悪霊につかれている男がイエスに出会った。彼は、長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた。彼はイエスを見ると、叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。『いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください』 それは、イエスが、汚れた霊に、この人から出て行け、と命じられたからである。汚れた霊が何回となくこの人を捕らえたので、彼は鎖や足かせでつながれて看視されていたが、それでもそれらを断ち切っては悪霊によって荒野に追いやられていたのである」(27-29) 悪霊につかれたということを、現代人は短絡的に精神病ときめつけてしまいがちですが、この男性はまさに悪霊に取り憑かれていたのだと、これは当時の知的文化人であり科学者でもあった医者ルカの証言です。


U 裏返しの福音を

 この出来事でルカは、マタイやマルコの記事とは違う視点を持っているようですが、そんな彼が伝えようとしたいくつかのメッセージを聞いていきたいと願います。

 イエスさまは、「何という名か」とお尋ねになりました。「レギオンです」 レギオンとはローマの軍隊用語で、約6000人からなる一個軍団を指します。それほど大勢の悪霊がこの男性に取り憑いていました。彼が凶暴になったのも無理からぬことでしょう。イエスさまは悪霊どもに、「汚れた霊よ。この人から出て行け」と命じられました。そこで悪霊どもはイエスさまに、「底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんように」(31)と懇願しました。「底知れぬ所」(ルカだけの表現)とは、古代世界の「天と地と地の下」という三層構造の宇宙観で、ユダヤ人にとっては、神さまの住まう「天」とは対照的に苦しみや悲しみが永遠に続く地の下・地獄であると考えられていました。サタンと手下の悪霊たちは、その住まいである地の底からやって来て、今、私たちの住む「地」に住みついているのでしょうか。もしかしたら、彼らは神さまがいらっしゃる「天」に住まうことを願っているのかも知れません。彼らは「もとの住まいに」と言われて、帰りたくないと言ったのです。地獄は彼らですら居心地の良い場所ではなかったと、ちょっぴりユーモラスに描きながら、ルカはここで福音の一端を語りたかったのではないでしょうか。イエスさまの十字架に罪を贖われた者たちは「天」に招き入れられますが、そうでない者たちには、永遠の業火が燃えさかるゲヘナ(地獄・地の下)が待ち受けているのだと、聖書はそのことをも裏返しの福音として証言しているのです。

 彼らが願ったのは、その付近で飼育されていた豚の群れに入ることでした。「ちょうど、山のそのあたりに、おびただしい豚の群れが飼ってあったので、悪霊どもは、その豚にはいることを許してくださいと願った。イエスはそれを許された。悪霊どもは、その人から出て、豚にはいった。すると豚の群れはいきなりがけを駆け下って湖にはいり、おぼれ死んだ」(32-33) マルコには2000匹とありますから、多分、その付近のほとんどの豚だったのでしょう。豚は汚れた動物として律法に規定されており(レビ11:7)、ユダヤ人は見るも汚らわしいと感じていたようです。


V その告白を私たちも

 対岸からその辺りを双眼鏡で見ますと、赤茶けた土肌のあらわな崖が延々と続いています。そんな異邦人の世界に漂着した弟子たちの目にはきっと、悪霊に憑かれて汚れた者となった男と、あの崖を駆け下りてたくさんの豚たちが湖に……と、信じられない光景の連続だったことでしょう。ルカ(マルコも)はその出来事に、結末とでも言える記事を加えます。「飼っていた者たちは、この出来事を見て逃げ出し、町や村々でこの事を告げ知らせた。人々が、この出来事を見に来て、イエスのそばに来たところ、イエスの足もとに、悪霊の去った男が着物を着て、正気に返って、すわっていた。人々は恐ろしくなった。目撃者たちは、悪霊につかれていた人の救われた次第を、その人々に知らせた。ゲラサ地方の民衆はみな、すっかりおびえてしまい、イエスに自分たちのところから離れていただきたいと願った。そこでイエスは舟に乗って帰られた」(34-37) 詳しい説明は不要と思いますが、人々がイエスさまに「離れてください」と言ったのは、これ以上の損害を与えて欲しくないということであり、そこには安堵と、いやされた人への「よかったね」というねぎらいの気持ちなど、全く見られません。汚らわしい豚と自己中心の異邦人、心を和ませてくれる緑のないその世界は、現代に重なってくるではありませんか。そこはまさに悪霊たちが蠢く(うごめく)にふわしいところだと感じられてなりません。

 しかし、この出来事が弟子たちの訓練と位置づけられていることを思い出してください。彼らはそんな世界に送り出されようとしているのです。そして私たちも、その状況に酷似した現代社会の真ん中で福音を語り伝えるように召されているのです。イエスさまと弟子たちの舟が、はからずもそこに漂着したことは、彼らを福音に招こうとされる神さまのご計画ではなかったでしょうか。この時の接触が契機となって、少し後にイエスさまは再度ここにやって来られます(「4000人の給食」〈マタイ15:29-39〉)。弟子たちが戦う相手は、決して汚れた異邦人などではなく、パウロやペテロがいみじくも看破したように、サタンこそ本当の戦うべき相手なのです。そして彼らは、彼らの主がその敵にすでに勝利していることを知る必要がありました。それがこの記事の意味ではないかと思われます。

 この出来事を彩る最後の記事です。「悪霊を追い出された人が、お供をしたいとしきりに願ったが、イエスはこう言って彼を帰された。『家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい』 そこで彼は出て行って、イエスが自分にどんなにおおきなことをしてくださったかを、町中に言い広めた」(34-39) 「神さまがあなたにどんなに大きなことをしてくださったか証言しなさい」 しかし彼は「イエスさまが……」と言い換えました。それは、イエスさまが神さまご自身であるという告白ではないでしょうか。このデカポリスの異邦人社会と同じようにサタンが勇躍する現代社会で、そんな告白を、私たちも一つでも多く聞きたいではありませんか。