ルカによる福音書

37 信仰共同体の小舟に

ルカ 8:22−25
詩篇 121:1−8
T 第一の奇跡から

 弟子たちの訓練が大詰めに近づいてきました。種蒔きのたとえに始まった、神さまのみことばをどう聞くのかといういくつもの問いかけを終え、ルカはイエスさまがなさった4つの奇跡(8:22-56)を取り上げます。ルカはその一つ一つにそれぞれの意味を持たせているようですが、その意味を聞いていきたいと願います。そして、4つの奇跡を弟子たちに経験させた後、彼らの訓練はそのワンステップを終えたのでしょうか、ひとまず終了となります。9章からはいよいよ使徒たちを町々村々へ派遣するという新しいプログラムが始まります。今朝は、その第一の奇跡8:22-25からです。

 「そのころのある日のこと、イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、『さあ、湖の向こう岸へ渡ろう』と言われた。それで弟子たちは舟を出した」(22) ガリラヤ湖の向こう岸には、カペナウムから見ますと、北東にピリポの領地テラコニテ、南東に異邦人の地デカポリスがありますが、ペテロやヨハネたちがイエスさまから声をかけられて弟子になったベッサイダはこのテラコニテでしたし、ベッサイダにはイエスさまはしばしば行かれていましたから、もしかしたら、その辺りに向かうつもりだったのかと想像します。ところが、26節には「ゲラサ人の地に着いた」とあり、そこは異邦人の地デカポリスです。もしかしたら、嵐のために舟の針路が狂ってしまったのかも知れません。その地方に行かれたのはこれが始めてで、この後、この地で行われた4000人の給食(マタイ15:22-39)は、イエスさまの目がそこに注がれるようになったこの出来事の結果ではなかったかと思われます。

 それはともかく、ルカやマルコの記事よりもずっと早い時期のこととしてこの記事を組み入れたマタイ(8:23-27)によりますと、忙しく働きづくめだったその疲れをいやそうと、しばしの休息を取るために群衆から離れるのが目的で舟を出されたようです。しかし、ルカはそのことには全く触れず、ただ「舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた」(23)とだけ記します。そこには、イエスさまが本当にぐっすり眠ってしまわれたとあるだけで、イエスさまは、その眠りが引き起こすであろうことには全く関係なく、ただただ自然に振る舞われていたという印象を受けます。しかしルカは、この記事が、まるでこれから起こるであろうことの中心なのだと言っているようです。


U 恐怖、絶望の中に

 舟が湖の真ん中辺りまで来た時のことでしょうか、突風が吹いてきて、大嵐になりました。「突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった」(23)とあります。ガリラヤ湖には、アラビヤの砂漠から時々冷たい乾いた東風が吹いてくるそうですが、特に冬になりますと、それが激しい大暴風になって、まわりを山で囲まれたすり鉢の底のような、双眼鏡で見ますと対岸を走る車が見えるほどの小さな湖に吹きおろし、猛烈な大時化になることがあるそうです。「突風が吹きおろして来た」というのは、そのことを指しているのでしょう。その時期にはベテランの漁師も湖の中央にはめったに出ていきませんでした。そんな危険な時期にさしかかっていたのかも知れません。弟子たちの中にはペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネなどベテランの漁師もいましたが、なぜか彼らがその危険を回避しようした形跡は全くありません。それほどの穏やかな湖面だったのでしょうか。それとも、イエスさまの弟子になり、舟を降りて久しいためにその感覚が鈍くなっていたのでしょうか。いづれにしろ、彼らは「向こう岸へ渡ろう」と言われるままに舟を漕ぎ出しました。マルコには「他の舟も」(4:36)とありますから、恐らく何艘もの小さな舟に分乗して向こう岸に向かったものと思われます。そしてこの大暴風に巻き込まれてしまうのです。きっと彼らは漁師としての経験を思い出し、いろいろと忙しく立ち働いて大嵐に立ち向かったことと思いますが、ルカもマタイもマルコもそんな彼らの努力には一切沈黙し、「弟子たちは水をかぶって危険になった。そこで、彼らは近寄ってイエスを起こし、『先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです』」(24)と訴える様子だけを強調しています。ベテラン漁師が、湖や舟のことには全く素人のイエスさまにすり寄っていくのです。

 この時の弟子たちの言葉を、マタイは「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです」、マルコは「先生。私たちがおぼれて死んでも、何とも思われないのですか」と記していますが、いずれにも共通な「おぼれる」は、「滅びる」(永井訳、岩波訳)という意味のことばです。総合してみますと、もう水を掻き出したり、舟を操作するなどという段階を放棄している彼らの様子が浮かび上がってきます。そこには彼らの本能的な恐怖や絶望といったものが顕わになっているようです。


V 信仰共同体の小舟に

 この奇跡物語にクライマックスが訪れます。「イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も治まり、なぎになった。イエスは彼らに、『あなたがたの信仰はどこにあるのです』と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。『風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう』(24-25) 弟子たちの驚きから、彼らがイエスさまにすり寄って行ったのは、決して、イエスさまを起こしさえすれば何とかなるという信頼などではなかったことが明らかでしょう。恐らく、こんな騒動の中でただひとり眠っている者がいるなんて、彼らには信じられませんでした。マタイには「主よ。助けてください」とありますが、ルカ(マルコも)にはそんなことばのかけらすら見当たりません。きっとマタイは彼だけの編集方針があって、そのことばを挿入したと思われますが、ルカやマルコは、弟子たちが直面した恐怖や絶望をイエスさまにも共有して欲しかったのではと感じながら、この記事を記しているようです。「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と、イエスさまが信仰を問題にされたのも、その恐怖と絶望を見たからではなかったでしょうか。マタイとマルコはイエスさまのことばに、「なぜこわがるのか」と加えています。

 この辺りは少し複雑ですので整理しておきましょう。まずマタイの記事ですが、その部分の全文を見ますと、「『なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。』それから起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった」(8:26)となっています。これは、ルカとは順序が逆なことがお分かりでしょう。(マルコの記事は何故かマタイとルカのどちらの要素も含んでいるが、今は問わない) 勿論、マタイのほうがルカよりも先に書かれましたので、イエスさまのことばと行動を逆にしたのはルカということになります。そしてルカは「なぜこわがるのか」という部分を削除してしまいました。きっとルカは、マタイよりももう一歩踏み込んだメッセージを語ろうとしているようです。

 「あなたがたの信仰はどこにあるのか」という問いかけが、マタイやマルコと同じく、弟子たちの恐怖と絶望に対してだったことは間違いないでしょう。イエスさまが「なぜこわがるのか」と言われたことも、恐らく共通の原資料にあったのだろうと思われます。しかし、ルカがあえてそれを削除したのは、彼らへの非難というニュアンスを和らげて、そこにもう一つの「信仰の意味」を問いかけようとしていると考えますと、順序を変更したことも、同じ理由なのではと聞こえてきます。

 ルカは嵐の中の小さな舟に、信仰共同体・教会を見ているのです。そこには主の手が翳(かざ)されています。主とともにいる者たちに、恐怖や絶望は似つかわしくありません。詩篇121に、「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方はまどろむこともない。見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」(1-4)とあります。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう」と言った弟子たちも、一人立ちする前に、イエスさまのそんなご愛を覚える必要がありました。私たちも同じ信仰共同体に乗っていることを覚えたいものです。