ルカによる福音書

36 愛のうちに

ルカ 8:19−21
エレミヤ 31:3−6
T 悪魔の虜とならないために

 前回、ルカは「種蒔きのたとえ」で、イエスさまの解説(8:9-15)に付け加えるような形で、彼自身のメッセージを8:16-18に加えましたが、その後に彼は、これも挿入句と思われるもう一つの短い記事・8:19-21を加えています。「イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のためにそばに近寄れなかった。それでイエスに、『あなたのおかあさんと兄弟たちが、あなたに会おうとして、外に立っています』という知らせがあった。ところが、イエスは人々にこう教えられた。『わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行なう人たちです』」 この記事はマタイ(12:46-50)にもマルコ(3:31-35)にもあるのですが、どちらも「種蒔きのたとえ」以前の出来事として扱われ、ルカだけがこの記事を「種蒔きのたとえ」に続く断片的な挿入句としているのです。これも、イエスさまの解説を締めくくるルカ二つ目のメッセージとして加えられたのであろうと思われます。

 一つ目のメッセージ(8:16-18)は、イエスさまの光に照らされ、隠れたところから引き出されてイエスさまに最後の戦いを挑んできた悪魔が、信仰者としての私たちをターゲットに、その力をフル活動させている教会の時代に(ルカは私たちの時代をも視野に入れていると思われますが)、悪魔のその力に対抗するために、聖徒たちはみことばに聞く耳を養っていかなければならないというものでした。イエスさまの燭台たれと勧めるルカのメッセージ(8:16)には、光を器で隠したり、寝台の下に置いたりする者にはならないようにとの戒めが込められています。私たちには、光より闇を好むところが多々あるのでしょうか。私自身、光を器で隠したり、寝台の下に置いてしまったことがないとは言い切れず、聖書に教えられ続けていなければ、そのままずるずると信仰から離れてしまったかも知れないのです。ルカは、パウロとともに歩んだ教会形成の働きの中で、そんな弱さを抱えた人たちを何人も何人も見てきたのでしょう。ルカはここにもう一つのメッセージを加え、悪魔の虜にならないようにと、現代の私たちをも配慮しているように感じられます。


U マリヤと兄弟たちが

 イエスさまのところに、お母さんのマリヤと、ヤコブやユダといった弟たちが会いに来ました。マタイやマルコの記事によりますと、パリサイ人や律法学者たちがイエスさまを民衆から引き離そうと画策し、「あれは悪霊のかしらベルゼブルの力で悪霊どもを追い出そうとしているのだ」と決め付けた時期のことです。イエスさまに「悪霊つき」というレッテルを貼る、それは、好ましくない人物を会堂から締め出そうとする時に用いる彼らの常套手段でしたが、その噂がマリヤたちの耳に届いたためと思われます。恐らく、マリヤはそんなことは気にも留めていなかったでしょうが、親戚の人たちからせっつかれ、弟たちがマリヤを引っ張り出して来たのでしょう。弟たちは、ずいぶん経ってからイエスさまを信じる信仰に導かれますが、この時期にはまだ、家を捨てて出て行った薄情な兄としか見ていなかったようです。しかし、ルカはその辺りのことを全く説明しようとはせず、ただ、マリヤと兄弟たちがイエスさまに会いに来たとだけ記しました。しかも、これはルカだけが加えているのですが、彼らは「群衆のためにそばに近寄れなかった」のです。彼らがイエスさまにお会いしないまま帰っていったという印象を強調しているように聞こえてきます。

 群衆たちの誰かでしょうか、「あなたのおかあさんと兄弟たちが、あなたに会おうとして、外に立っています」とイエスさまに伝えました。そこはカペナウムのペテロのしゅうとめの家だったようですが、小さな家ですので、大勢の人たちが押し掛けるとたちまち内も外も人で溢れかえってしまい、とてもイエスさまのところにまで近づく隙間はありませんでした。「悪霊つき」云々はともかく、久しぶりのチャンスでしたから、さぞかしマリヤはイエスさまに会いたかったでしょう。しかし、イエスさまは出て行こうとはされず、かえって、訪ねて来たマリヤや兄弟たちを素材に、人々に福音の中心とでもいうべきことを教えました。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行なう人たちです」 ここをマタイやマルコは、「父(神)のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」としていますが、ルカだけはもっとくわしく、「神のことばを聞いて行なう人たち」と言い換えています。このところをもっと丁寧に聞いていきたいと思います。


V 愛のうちに

 理屈っぽいことを言うようですが、しばらくご辛抱ください。「神のことば(主のことば)」という言い方は、パウロ文書にダントツに多いのですが、1世紀終わり頃とかなり時代が下ったヨハネ文書を除きますと、パウロ文書に次いで使徒行伝に多く見られます。ヨハネのロゴス・キリスト論も、パウロから学んだと思われますが……。その「神のことば」の大半を、パウロはイエスさまの福音、或いは、イエスさまご自身を指すものとして用いていますが、パウロの弟子であったルカは、そのパウロ神学を引き継ぎ、同じように、「神のことば」と「福音」、或いは「イエスさま」を同義語のように扱っています。しかし彼は、パウロのように福音の解き明かしという分野においてではなく(ルカは書簡のようなものを残しませんでした)、教会形成という弟子たちの働きの経緯を記録した使徒行伝において、時には「救いのことば」(13:26)、「恵みのことば」(14:3)などと言い換えながら、この「神のことば」を展開していきます。イエスさまの福音は私たちの中に刻まれ、時の中心で具体化されていくという、それが彼のパウロから受け継いだ神学の領域だったと思われます。彼の関心事は、イエスさまから弟子たちへと引き継がれた、教会形成という一点に絞られているようです。そして、この福音書も、使徒行伝を読むことで更に味わい深くなると以前触れたことがありますが(ルカによる福音書23、6:12-16のメッセージ)、思い出して頂けるでしょうか。

 ルカは、イエスさまが言われた「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行なう人たちです」を、教会を指していると受け止めました。しかし、少々問題が残ります。ルカはそこに、「神さまのことばを聞いて行なう」と、それが教会の中心だとでも言いたげに加えているのです。なにげなく聞きますと、「神さまのことば」があたかも律法かのように聞こえますが、イエスさまの福音は、断じて律法ではない筈です。律法でないとしたら、何でしょうか。ルカが引き継いだパウロ神学では、「神のことば」は「福音」或いは「イエスさま」でした。しかし、それですと、「……を行なう」という言い方は、説明するまでもなく、とても奇妙なものになってしまいます。ルカが「神のことばを行なう」ことを勧めるのに、マリヤと兄弟たちが会いに来た記事を採用した、その意図に鍵があるようです。「母」も「兄弟」も愛し合う一つ家族を構成する人たちですね。ここに用いられる「行なう」は、新約聖書に568回も出てくるごく普通のことばですが、その用法は「する」「つくる」「行なう」「実行する」「備える」「かなえる」などの意味を持つ幅の広いものですから、ユダヤ人風に「律法を聞いて行なう」と受け止めるより、「イエスさまが私たちを愛してくださったその愛を、あなたも実行しなさい」と聞くべきでしょう。イエスさまに愛され、イエスさまを愛する者たちの群れ・一つ家族は、教会を指しているのです。「福音を行動する」「イエスさまに倣う」、これがルカの意図した「行なう」の内容ではないでしょうか。これがルカの教会観であり、福音とは思弁するものではなく、愛を行動するものなのです。イエスさまはただ救い主、主と想像するだけのお方ではなく、十字架に死んで私たちの罪を赦してくださった愛のお方ですから。信じて神さまのみ国(教会)に迎え入れられた私たちも、そのお方に倣って愛のうちに生きようではないかと、ここにルカのメッセージが聞こえてくるようではありませんか。