ルカによる福音書

35 戦いの中で聞く耳を

ルカ  8:16−18
イザヤ 42:18−25
T 光を輝かす燭台に

 「あかりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。燭台の上に置きます。はいって来る人々にその光が見えるためです。隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません。だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです」(16-18) 今朝のテキストは、非常に断片的なものですが、種蒔きのたとえに続くイエスさまの解説を締めくくる一つとして、ルカは集めた資料から取り出して(マタイ5:15の山上の説教にも同じものがある)、ここに加えたのでしょう。断片的になっているのは、これがルカのメッセージだからと思われますが、それを彼はここでイエスさまのメッセージに加えています。それは、彼がイエスさまのメッセージをどう聞いたかということではないでしょうか。その彼が聞いたイエスさまのメッセージ、その中心部分をここから探ってみたいと思います。

 ばらばらなように見えますので、1節づつ丁寧に見ていくことにしましょう。まず16節からです。
 「あかり」とは恐らく手燭のことです。手許に、骨董好きの方から頂いた古いペルシャ?の手燭がありまして、ずいぶん前のことですが、粘土でそのレプリカを作り、オリーブオイルを入れて灯をともしたことがあります。ほの暗い小さな灯火でしたが、何とも言えない暖かな光でした。それを燭台に置くのです。マタイには「そうすれば、家にいる人々全部を照らします」とありますので、いくつも置くなどして、部屋全体を照らす光になるよう工夫していたのではと想像します。それでも、光が見える程度でしかなかったとは思いますが……。「光が見えるためです」とあるのは、燭光が周りをあかあかと照らす効果よりも、光そのもが人々を迎えるもてなしだったということでしょう。今でも、光そのものが主役として私たちを魅了してくれますが、神戸でのクリスマスシーズンに行われるルミナリエはその良い例ですね。「あかり」は、恐らくイエスさまを指しています。「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた」とあるヨハネ1:9をはじめ、新約聖書にはイエスさまを光であるとする多数の証言があり、イエスさまを「世の光」として描いています。すると燭台とは、弟子たちのことではないでしょうか。遣わされる弟子たちは、世の光であるイエスさまを掲げようとしています。そしてルカ自身も、そんな燭台になりたいと願っているのです。これは、当時の全教会、そして現代の私たちにも、そうなって欲しいと願う彼のメッセージではなかったかと思わされるのです。


U 闇の力が今

 二番目は17節からですが、ここでは、「隠れているもの」と「秘密にされているもの」と、恐らく同じことが二回繰り返され、強調されています。聖書の中で「隠れているもの」「秘密にされているもの」と言われるとき、それは神さまを指すことが圧倒的に多いのですが、ここで、ルカの意識の底流には、イエスさまが「道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです」(12)と言われたことがあったのではと思うのです。悪魔は、世間の常識、科学的といった、いかにも善いものという仮面の下に隠れ、黒子のように、神さまのことばとは相容れない世界を私たちの中に密かに形成していくのです。そんな様子をルカは、パウロとともに世界各地での教会を建て上げる働きを通し、つぶさに見てきたのでしょう。教会には、神さまの聖なる部分とは裏腹に、人間のエゴ・人それぞれの価値観が信仰の名を借りてぶつかり合う部分がとても多いように思われます。時には自分の正しさ(しばしば信仰の)さえも争いの原因になっていることがあるのです。まるで、教会が成立し、存続していくことを妨げているかのように。悪魔が巧妙にわなを仕掛けているとしたら、教会には昔も今も多くの問題が生じていたと納得いくではありませんか。

 それが「あらわになる」と言われるのです。きっとルカは、「光」に照らされて、「闇に隠れていたもの」が浮かび上がると、これを16節につなげているのでしょう。まさに、闇という隠れ家から出て来た悪魔を言っていると感じられます。悪魔が自分から進んでなのか、光であるイエスさまに引き出されたのか、その辺りは微妙ですが、いづれにしても、教会を舞台に光と闇の対決が始まったと、それがイエスさまの種蒔きのたとえ・解説の中心になっているのです。前回、弟子たちは「時の中心」に招かれていると聞きましたが、その時とは、光と闇の対決を指していると聞いていいのではないかと思います。現時点では、闇の力が好き放題をしていると見えるのですが……。


V 戦いの中で聞く耳を

 三番目です。「だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです」(18) 「持っている」とは、「神さまのことば」や「光」を指しているのでしょうが、「イエスさまを信じる信仰」、或いは、「神さまの恵み」と聞いてもいいかと思います。いづれにしても、ご自分の民であると神さまから認定されたことを指しており、「持たない」とは、イエスさま抜きで「信仰者(宗教者)」を自認していることではと思われます。ですから、「持っている人はさらに与えられ」、「持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられる」と言われるのは、私たちのイエスさまを信じる信仰が本物かどうかを問いかけているようです。洗礼を受けて〇〇教会のメンバーになったから「私は神さまのみ国の一員である」とは限らず、牧師、教会の役員になったなど、本物かどうかとは無関係でしょう。しばしば、教会の混乱はそのような人たちから生じており、ルカ当時にも、彼が疑問を感じるような人たちが教会をかき回していた、そんな状況があったのでしょうか。十字架への道を歩み通したイエスさまに敗北して引き下がった悪魔は、今、イエスさまに対する最後の戦いを、与しやすい人間・聖徒たちに向かって仕掛けていると覚えておかなければなりません。

 きっと、牧師または役員であるということなどに比重をかけすぎて、イエスさまを信じる信仰の「本物」を目指さない人たちが、悪魔の餌食にされていくのでしょう。そのような周辺のことではなく、私たちは、イエスさまの十字架を「私の罪の赦し」と聞いていかなければなりません。本物の信仰とは、そこにかかっているのです。教会とは決してそのような周辺のことなどではありませんが、地域教会は、ともすればそのような周辺にかかりっきりになってしまうことがあるようです。パウロが、「もし、あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる」(ロマ10:9)と教え、その福音を聞いた者たちに、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(10:17)と言ったことを、深く心に刻みつけていたルカでしたから、信仰の本物と偽物とをしっかり区別しなければならないと、そこからこのメッセージが生まれたのでしょう。十字架の赦しを自分への神さまの決定と聞いた人だけが、真のイエスさまの教会・神さまのみ国に迎え入れられると覚えておきたいのです。

 「だから、聞き方に注意しなさい」とは、そのことが言われているのではないでしょうか。先に触れた、弟子たち、そして私たちも招かれている「時の中心」とは、そのようなイエスさまと悪魔の戦いが繰り広げられている、現代教会でのことなのです。私たちは、そこで神さまのことばに心を傾けて聞いていかなければなりません。私たちもまた、その戦いの渦中に引き出されているのですから。聖書が語るメッセージに聞く耳を養っていく、ルカの心を込めたその思いを聞いていきたいのです。