ルカによる福音書

34 イエスさまご自身の中に

ルカ  8:9−15
イザヤ 6:8−13
T イザヤの時代と

 「さて、弟子たちは、このたとえがどんな意味かをイエスに尋ねた」(9) 前回の「種蒔きのたとえ」(8:4-8)の続きです。ここは、イエスさまによる「種蒔きのたとえ」の解説ですが、弟子たちがこのたとえ話を聞いていて良く分からなかったことから、その意味をイエスさまに尋ね、それがイエスさまのこの解説になったのです。「良く分からなかった」とはどういうことなのか、まず、そこから考えてみる必要がありそうです。恐らく、民衆が理解した程度のことは弟子たちも理解したと思われますが、それは、民衆が種をパリサイ人や律法学者、当時の預言者たちが民衆に語ったメッセージであろうと受け止め、道ばたや岩地やいばらが生い茂る悪い畑とは自分たちを言ったものであろうと聞きながら、しかし、自分たちの中に種が根付いていかないのは、種そのものの故ではないかと反発していたことを指しています。しかし、これまでずっとイエスさまの話を聞き、そのなさることを見てきた弟子たちには、パリサイ人や律法学者たちが語るメッセージは、たとえ聞く者たちが良い畑であっても、百倍もの実を結ぶとはどうしても思えなかったのではないでしょうか。「このたとえ話には別の意図があるにちがいない」と感じた弟子たちは、民衆が解散した後に、その真意を知りたいとイエスさまに尋ねました。

 「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者にはたとえで話します。彼らが見ても見えず、聞いても悟らないためです」(10)と、イエスさまはお答えになります。「彼らが見ても見えず、聞いても悟らないためです」とはイザヤ6:8からの引用ですが、これは、イザヤが預言者として召命を受けた時に神さまから伝えられたメッセージでした。イスラエルの人々は、神さまのことばに極めて鈍感になり、預言者が精魂傾けて神さまのことばを語っても悟ろうとはせず、無反応だったばかりか、逆にそんな預言者を追い落とそうとさえしました。伝説によりますと、イザヤはマナセ王によってノコギリで引かれて殉教したと伝えられています。イザヤもエレミヤも、神さまのことばを誠実に伝えようとした預言者たちは、人々から憎まれたのです。その預言者たちが震え上がるほどの激しい神さまの怒りが、ここから伝わってくるではありませんか。そして今、イエスさまは、このイスラエルの人々がイザヤ時代と何ら変わることがないと、彼らを厳しく断罪しておられるのでしょう。


U 悪魔と手を結んだ生き方が

 他の人たちには知ることが許されないという「神さまの国の奥義」を、イエスさまは弟子たちのために解き明かされます。「このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです。岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。いばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、良く耐えて、実を結ばせるのです」(11-15) この中で、とても不思議に思ったことがあります。4つの状況は、いづれも神さまのことばを聞く「人(私たち)」のことでしょうが、「岩の上に落ちる」と「いばらの中に落ちる」が聞く人自身の問題であると言われるのに、「道ばたに落ちる」だけが、「悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、みことばを持ち去ってしまう」と、まるで「道ばた」だけが悪魔の領域だと言われているようではありませんか。

 本当にそうなのかと、何回も読み返してみました。実はこれまでずっと、ここでイエスさまは民衆を4つのタイプに区分けされたと思っていましたが、人の心は、そんなに明確に、「道ばた」「岩の上」「いばらの中」「良い地」と区分け出来るものでしょうか。そして、「道ばた」「岩の上」「いばらの中」が民衆で、「良い地」が弟子たちとであると、イエスさまはそうは言っておられないようです。むしろこれは、私たち自身の中にこういったさまざまな局面があるということではないでしょうか。そう聞きますと、「試練」や「この世の心づかい、富、快楽」なども悪魔の仕業でしょうし、反対に、みことばを持ち(取り)去ってしまうのも、私たち自身ではないかと思われるのです。神さまのことばの前に立つとき、私たちもまた悪魔と手を結ぶことがあるのではないかと思われますが、いかがでしょうか。悪魔と手を結ぶなどと、それほどではなくても、そういった生き方は、まさに現代人そのものではないかと感じらるのです。


V イエスさまご自身の中に

 しかし、イエスさまはこのたとえの中に「良い地」を加えました。それはイエスさまが、「正しい心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせる」人を望まれたからに他なりません。イエスさまは、今、弟子たちを働き人として訓練しているところでした。かつてイザヤなど預言者たちがそうしたように、彼らは間もなく、福音をたずさえて民衆の中に分け入っていかなければなりません。彼らは、神さまのことばという種を蒔く者に召されているのです。その時、彼らが立ち向かわなければならない本当の相手は、悪魔だということなのでしょう。この教えをそのように聞ききますと、弟子たちは「正しい心でみことばを聞く」者でなければならないという、訓練の方向が浮かび上がってくるようです。他の訳には、「立派な善い心」(新共同訳)「美しい、善い心」(岩波訳)などとありますが、新改訳のように「正しい心」と訳したほうがいいのではと思われます。それは、ユダヤ人流の律法を守る正しさではありません。「神さまが望まれる通りに行動する」と言ったらいいでしょうか。神さまが思うように思い、神さまが判断するように判断し、神さまが選択するように選択する、「神さまのところに立つ」ことを、イエスさまは彼らにお求めになったのでしょう。彼らが悪魔に対抗し、勝利するためには、神さまの力をまとう以外になかったからです。ですから、新改訳が「実を結ばせる」と訳したことにも、ルカの意識が込められているように感じられます。彼らは悪魔に打ち勝ち、民衆の中に福音の実を結ばせるために出て行こうとしているのです。

 こう聞いてきますと、彼らが蒔こうとしている「神さまのことば」が何を指してるのか、はっきりしてくるようです。それは、決してパリサイ人や律法学者が教えてきた「律法」を意味しませんし、民衆が聞きたいと願った預言者のことばでもありません。朝に夕に聖書を読み、そのことばを書いた紙切れを小さな箱に入れて手首にくくりつけたり、首にぶら下げたりしているユダヤ人たちにとって、単なる文字としての「神さまのことば」は珍しくも何ともありませんでした。まして、神さまのことばに似せた人のことばなど、彼らの世界に氾濫していました。現代も同じですね。私たちが福音と思っているものは、もしかしたら、単なる文字としての「神さまのことば」か、「神さまのことばに似せた人のことば」かも知れないと、心しておかなければなりません。弟子たちは、そういったまがいものと真実な神さまのことばとをしっかりと区別する必要がありました。イエスさまの福音は断じてまがいものであってはなりません。彼らが担っていこうとしているのは、イエスさまから託された最も大切なもの、イエスさまご自身でした。イエスさまの福音とは、十字架にかかり、よみがえられたイエスさまご自身のことであり、「神さまの国の奥義」はそのことを指していると聞こえてきます。「神さまの国の奥義」を知ることを許された弟子たちは、イエスさまご自身という、時の中心に招かれたのではないでしょうか。その中心に私たちもと、しっかり心に刻んでおきたいですね。