ルカによる福音書

32 新しく創られた群れに

ルカ  8:1−3
イザヤ 66:22−23
T 神さまの国からの招き

 今朝のテキストは8:1-3という非常に短いところですが、ルカはここを前後の記事とは切り離し、独立した挿入句としています。しかもこの独立句は、他の挿入句と比べてとても長いのです。きっとルカの中では、今これが必要だという思いがあったのでしょうが、なぜここにこのような記事が差し挟まれたのか、その内容とともに、ルカの思いにも触れて見たいと思います。

 「その後、イエスは、神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら、町や村を次から次へと旅をしておられた」(1)  同じ記事がマタイにもあります。「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え……」(マタイ9:35) イエスさまが「町や村を次から次へと旅をしながら」(ルカ)「すべての町や村を巡って」(マタイ)福音を宣べ伝えておられたとありますが、今までカペナウムとその近辺を中心に活動を続けて来られたイエスさまが、恐らく、その活動の場を広げようとしています。二人の福音書記者は、その節目にこの独立句を挿入しました。とりわけルカは、コスモポリタンらしく、その「広がり」に関心を寄せているようです。

 ルカがこの独立句の中心点として冒頭に取り上げた「神の国を説き、その福音を宣べ伝え」ということを考えてみたいと思いますが、この表現は少々まわりくどいように思います。それに比べてマタイは、「御国の福音を宣べ伝え」と簡潔にすぎ、別の福音もあるのかという誤解も生じやすいようです。しかし、この二人を合わせてみますと、イエスさまの福音とは神さまのみ国のことであるという、初期教会のコンセンサスが浮かび上がってきます。永井訳は「彼は福音=神の国を宣べ伝え」と端的に訳していますが、「福音=神の国」とはどういうことなのでしょうか。ユダヤ民族は、神さまの選民という特別な意識を持っていました。ところが、神さまとのつながりのシンボルである「油注がれた者」(王、大祭司、預言者)を失って久しいのです。当時、ユダヤはヘロデ王朝とローマという異邦人の二重支配下にありましたが、そのような異邦人の権力者におもねる者たちだけが肥え太り、民衆は貧しく病んでいました。パリサイ人や律法学者は、律法に上乗せした禁止条項を口うるさく説くだけで、そこから彼らに身近な筈の神さまのことは何も伝わってきません。自分たちは神さまから見捨てられたのではないかという暗い思いが、国中に充満していました。イエスさまは、そのような希望を見失った民衆に、神さまはあなたたちを愛している、というメッセージを伝えたのです。ところが、このメッセージはマタイのもので、ルカはそのユダヤ人の意識には関心を示していません。かえって、はじめから神さまの国から遠いと思われている異邦人に対し、福音はあなたたちへの神さまの国からの招きだと言っているようです。


U 神さまのことばを担う者に

 ルカとマタイの記事は、次から違った方向に向かいます。
 「あらゆる種類の病気、あらゆる種類のわずらいを直された。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。そのとき、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい』」(9:35-38)とあるマタイの記事は、希望を見失ったユダヤの民衆に、羊飼いのような暖かい目を注ぐイエスさまを意識したものと言えるでしょう。ところが、ルカの記事は、イエスさまに同行した使徒たちと女性たちだけに絞られます。「十二弟子もお供をした。また、悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラと呼ばれるマリヤ、ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか自分の財産をもって彼らに仕えている大ぜいの女たちもいっしょであった」(1-3)と、同行した人たちは使徒と女性たち以外にもいたと思うのですが、わざわざ「十二弟子もお供をした」と、それはこの旅の目的の一つが彼らの訓練にあったためです。次の「種まきのたとえ」を見ますと、イエスさまは彼らの疑問に実に丁寧に答えておられ、そんなところにも弟子たちに注ぐイエスさまの目の温かさを感じます。彼らに、神さまのことば(11)を担う者として、練達した働き人になって欲しいと願っているのでしょう。


V 新しく創られた群れに

 そして、いかにも唐突に登場してくる女性たちですが、ルカは、彼女たちをこの独立句の一つの中心として描いているようです。短い記事ですので、大部分は想像の域を出ませんが、ルカが意識したところに触れてみたいと思います。まず、個人名が上げられる3人の女性たちからです。「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラと呼ばれるマリア」「ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ」「スザンナ」の3人ですが、残念ながらスザンナについてはここ以外に記録がありませんので何も分かりません。が、恐らくルカ当時の教会では、「あの女性か」と言われるほど良く知られていた女性だったと思われます。他の二人について説明がついているのは、同名の人たちが多かったためでしょう。「マグダラ(ガリラヤ湖西岸にある町)のマリア」のことは福音書中に12回も記されていて、良く知られた女性でした。中でもよみがえりのイエスさまにお会いした最初の人としてヨハネが記した記事は圧巻です。ルカは彼女に「七つの悪霊を追い出していただいた」という説明をつけていますが、それは、医者ルカから見ても、治癒(ユダヤ人に限らず、古代の人たちが「悪霊に憑かれている」と恐れることをルカはある種の病気と診ている)の見込みがなかった(7という数字は完全数)にもかかわらず、イエスさまに癒されたということであり、それが、当時の教会では「悪霊や病気を直していただいた女たち」の代表格として有名だったためでしょう。そして恐らく、ヨハンナやスザンナもそうした女性たちの一人だったと思われます。イエスさまと弟子たちの一行にそんな彼女たちが加わっているということは、この信仰共同体とでも言うべき交わりが、世間から見放されたような人たちで構成されていたと、これは、世界中に建てられつつあった教会への、ルカの報告書とでも言えるかも知れません。

 もう一人の「ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ」は、恐らく、重い病気(悪霊憑き?)のために苦しんでいた時に、イエスさまにお会いしたのでしょう。夫のクーザが、イエスさまを中心とする交わりに加わることを彼女に許したのは、王宮にはすでに彼女の居場所がなかったことを意味します。彼女の生きるところは、もはやイエスさまのそばしかなかったのです。しかし、その病いをいやされた彼女がこの交わりに持ち込んで来たものは、恐らく、クーザが持たせてくれた「自分の財産」でした。この交わりに加わっていた大ぜいの女性たち、大半は貧しい一般民衆でしたが、一部ヨハンナのような人もいたということでしょう。「自分の財産をもって」という言い方は、「信者となった者たちはみないっしょにいて、一切の物を共有していた」(使徒2:44-45)とあるルカ第二書の世界、初代教会の時代を彷彿とさせてくれるではありませんか。彼女たちは、「彼らに仕える」ために同行していました。彼女たちの祈りが弟子集団を支えたと言えそうです。

 人の弱さを思いやり、互いに仕え合い、祈り支え合う。そこに神さまへの賛美があり、喜びと真心がある(使徒2:46-47)。そして、何よりもその中心にイエスさまがいらっしゃると、イエスさまが願った弟子たちの訓練はそうした方向を目指すものでした。ルカの目は、教会を建て上げるということに向いているのです。彼が「神の国を説き」と、見方によっては福音宣教と切り離しているかのような言い方をしているのは、神さまのみ国に教会を重ね合わせているからに他なりません。イエスさまの教会とは、単なる人の集まりではないのです。まさに、神さまのみ国に呼び出された者たちの群れ(エクレシア)、主のお顔を拝するために新しく創造された神さまの世界なのです。弟子たちは、その世界を見るために、今、訓練の最中なのでしょう。私たちもその世界を見つめていたいですね。