ルカによる福音書

31 あなたの罪を赦します

ルカ 7:36−50
イザヤ 55:6−13
T 教会への警鐘

 「さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた」(36) 今朝のテキストには、パリサイ人と罪深い女という二人の主役が登場してきますが、ルカはパリサイ人に意外なほど細かな注意を払っています。まずこのパリサイ人から見ていきましょう。

 イエスさまが食事に招かれるのはさほど珍しいことではありませんでした(11:37、14:1)。これは当時、町の有力者たちが巡回してくる教師を招いて話を聞き、気に入ればスポンサーになるという習慣によるもので、旧約時代の預言者集団にもあった習慣が受け継がれたのかも知れません。招く者の知名度や利益にもつながっていたからでしょう。しかし、「パリサイ人は『この方がもし預言者なら……』と心ひそかに思っていた」(39)とありますので、彼はイエスさまを特別なゲスト(メシア?)として招いた筈ですが、イエスさまを賓客として遇していません。足を洗う水を出さず、口づけをせず、頭に油を塗ることもありませんでした。イエスさまのたとえ話に、金貸しから500デナリ、50デナリ(1デナリは労働者の賃金一日分)の大金を借りて返すことが出来ない人のことが出てきますが(41-43)、そのような大きな金額に違和感を持たない様子から、彼の生活水準は庶民とはかけ離れていたと感じます。メシアかも知れないと思いながらも、外見上は貧しい庶民にすぎないイエスさまを軽んじる本音が出てしまったということでしょうか。そうしますと、食事の席に「罪深い女」が入り込んで来たことも、もしかしたら、イエスさまを値踏みしようと、彼が呼び寄せたのかしらと邪推したくもなります。多分、そうではなく、入って来たのは彼女の意志だったのでしょうが、結果的に彼が呼び寄せたと思われても仕方のない振る舞いになっています。いかにも神さまのことを大切にしているようで、その実、極めて表面的なところでしか神さまを見ないユダヤ人意識がにじみ出ているように感じられてなりません。

 この記事はルカだけのものですが、そのようなユダヤ人意識、恐らく現代の私たちの中にもある(宗教)意識は、教会から断固排除しなければならないと、彼は強く感じているのでしょう。信仰とは、世間体とか知名度といった実利面での損得にかかわることではないと、それはルカの強烈な反発ではなかったでしょうか。ここから教会へのメッセージが聞こえてくるようです。


U どちらがよけいに

 二人目の主役は「罪深い女」です。彼女についての記事はほんの数行ですが、イエスさまもルカも、彼女を通して極めて大切な福音の中心点に触れようとしています。「すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで両足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った」(36-38) 「罪深い女」とは恐らく娼婦のことです。小さな町のことですから、その存在はみなに知られていました。そして彼女は、きっと、人々から侮蔑を込めた目で眺められていたのでしょう。しかし、そのような生き方をしなければ生きていけないそんな悲しみが、彼女をイエスさまのところに導いたのではと思われます。当時のガリラヤ地方の習慣だったのでしょうか、家々はかなりオープンで、出入り自由といった雰囲気があったようです。ですから、イエスさまがシモンの家に食事に招待されたと聞いて、彼女はシモンの家にやって来ました。きっと、裏口から、おずおずと。しかし、高価なナルドの香油と思われますが、手に香油の入った石膏の壺がしっかり握りしめられていました。すぐに食卓に、これまでにも何度か見かけたイエスさまを見つけ、彼女はその足下に立ちました。当時のユダヤ人は、左肩を下にして長椅子の上に寝そべるような格好で食事をしていましたから、少しかがみますと「涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った」という姿勢が無理なく出来るのです。

 彼女のするがままにされていたイエスさまは、シモンに話しかけられました。「シモン。あなたに言いたいことがあります」「先生。お話ください」「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうち、どちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか」「よけいに赦してもらったほうだと思います」「あなたの判断は当たっています」 この時シモンは、イエスさまのメッセージを聞き漏らさないように、注意深く聞き耳を立てていました。きっとイエスさまは、この満座の人々の中で、スポンサーになるはずの私を賞賛されるにちがいないと……。


V あなたの罪を赦します

 ところが意外にも、彼が侮蔑を込めて眺めた「罪深い女」が賞賛されました。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。あなたは口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません』」(44-47) そして彼女に向かって言われました。「あなたの罪は赦されています」(48)「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」(50)

 ルカが最も大切なこととしてここに記した「罪の赦し」ということを見ていきたいと思います。ユダヤ人社会で、「罪ある者」というレッテルは、「汚れている」というレッテルとともに、神さまに忌避されていると受け止められることででしたから、そのようなレッテルを貼られた者はユダヤ人たちの礼拝に加わることが出来ませんでした。そのラベリングは、昔は祭司、今はパリサイ人など会堂を中心とする律法指導者が行なっていたのですが、当然それには会堂への出入り差し止めもあり、ユダヤ人社会でまともな社会生活が出来ないことを意味していたのです。彼女がイエスさまに近づいて来た時、シモンが心ひそかに「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれでどんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから」とつぶやいたことにも、それが窺えるでしょう。その意味で、「罪を赦す」ということは、決して観念的なことではなく、非常に具体的な、その人の生存権にかかわることでした。彼女にとっての赦しは、第一に、ユダヤ人社会への復帰を意味していたのです。しかし、イエスさまの赦しには、それ以上に、神さまのみ国の市民権の回復という意味がありました。もともと神さまに創造された人間は、エデンの園のアダムとエバのように神さまの民でしたが、神さまへの反抗から罪ある者と宣言され、神さまから遠く退けられていました。ですから罪は、神さまとの関係(信仰)を考えないでは、根本的に理解出来ないとお分かり頂けるでしょう。罪の赦しとは、そのように断絶していた神さまとの交わりを回復することであり、神さまにしか出来ないことでした。神さまがそう認め、そう宣言されることなのです。

 「あなたの罪は赦されています」「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」と言われたイエスさまは、まさに神さまご自身としての意志を行使されたのです。この宣言を今、イエスさまは弟子たちに委任しようとしておられます。十字架はそのしるしでした。ルカは、教会がこの委任をしっかり受け止めることが出来るようにと願いながら、この記事を書いているようです。非常に重いことですが、現代の教会人も、みことばにもとづいて、多くの人たちにこの宣言をするように招かれているのです。これは、「あなたの罪を赦す」と宣言された者だけに委任された務めだと、聞いていかなければなりません。