ルカによる福音書

30 あなたの救い主を

ルカ  7:24−35
伝道者 12:1−2
T 民の誤解は

 前回のテキスト7:18-23は、イエスさまに対するヨハネの証言であったと聞きました。続く今朝のテキスト7:24-35は、ヨハネについてのイエスさまの証言です。

 二人の使者がヨハネのメッセージを携えてやって来ました。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも私たちはなおほかの方を待つべきでしょうか」(19,20) 彼らがイエスさまにお会いした時、イエスさまは、「多くの人々を病気と苦しみと悪霊からいやし、多くの盲人を見えるようにされていた」(21)とある、そんなお働きの真っ最中だったと思われます。ヨハネの質問は、イエスさまに早くメシアとして立ち上がってくださいと願うもので、疑いなどは全く見られませんが、恐らく、民衆にとっては、ヨハネ自身もイエスさまを疑っているのではないかと聞かれる可能性のあるものでした。「ヨハネの使いが帰ってから、イエスは群衆に、ヨハネについて話しだされた」(24)と今朝のテキストが始まりますが、イエスさまの証言は、そのことに端を発していたのかも知れません。民衆の誤解はそれだけではなかったからです。

 イエスさまは言われます。「あなたがたは何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。きらびやかな着物を着て、ぜいたくに暮らしている人たちなら宮殿にいます。でなかったら、何を見に行ったのですか。預言者ですか」(24-26) イエスさまのこの3つの問いは、ヨハネに対する民衆の期待がどのようなものであったかを洞察しているようです。第一にイエスさまは、あなたたちは、ヘロデに捕らえられ、牢獄に幽閉されてしまったヨハネに失望(裏返しの期待)しているではないかと言われます。メシアではないかと期待されたヨハネでしたから、世の権力に敗北してしまったその弱さに、彼らはがっかりしていたのでしょうか。「風に揺れる葦」とは、民衆のそんなヨハネ観を言っていると思われます。第二にイエスさまは、ヨハネがユダヤ社会に改革を起こし、自分たちも「柔らかい着物やきらびやかな着物を着て、ぜいたくな暮らしが出来るようになるのでは……」と期待する民衆の姿を見ているようです。しかし、ヨハネはそんなことのために遣わされて来た人ではありません。「そんな望みを手に入れたいのなら、宮殿に行けばいいでしょう」と、イエスさまは彼らの向かう方向の間違っていることを指摘されます。


U 約束のメシアが

 第三にイエスさまは、彼らがヨハネを預言者であろうと期待し、熱狂的に彼の周りに集まっていたと指摘します。この「預言者」には定冠詞がなく(メシアを預言者という時には定冠詞がついている)、預言者の一人というニュアンスが感じられますが、イスラエルから預言者が途絶えて400年という長い年月が経っていました。預言者(あるいはメシア)の出現を切望していた民衆にとって、一時的にでも、今、自分たちの導き手になってくれさえしたら、それは誰でも良かったのでしょう。この時代、大勢の「メシア」が現われては消えていきましたが、民衆は、「あの人がメシアだ」「この人こそ本物だ」と聞けば、すぐさまその人のところに群がっていました。ヨハネをメシアか預言者であろうと群がっていた民衆には、そんな刹那的な期待と疑いが交錯していたようです。

 ヨハネは預言者なのか? 「そのとおり」とイエスさまは彼らの期待を肯定しながら、さらに続けます。「言っておく。預言者以上の者である」(26・新共同訳) 民衆のヨハネへの期待は熱心なものでしたが、いつかは消えていく淡いものでしかありませんでした。彼らには、期待されながら未だに来ないメシアへの不満があったのでしょう。イエスさまは、そんな彼らにお答えになります。ヨハネは預言者以上の者である。彼は「『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう』と書かれているその人です」(27・マラキ3:1)と、ヨハネの使命を明らかにしました。つまり、ヨハネが来たからには、メシアも来るのです。そして、ヨハネは民衆の前から消えていきました。彼は「メシアのために道を整える」役割を果たし終えたのです。メシアが来られたのですから。イエスさまのこの証言はヨハネに対するものではなく、約束のメシアがここに来たという証言であるとお分かり頂けるでしょう。それは、ご自分がメシアである方の宣言でもありました。


V あなたの救い主を

 ところで、今、イエスさまは使徒たちを訓練しているところでした。そのことを思い出しながら、ヨハネへの証言をイエスさまご自身のメシア宣言であると聞きますと、続くことばもなんとなく分かるような気がします。「あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています」(28) イエスさまは、神さまのみ国の主(あるじ)であるからこそ、このように言うことが出来ました。そして、このことばを聞いた弟子たち(現代の聖徒たちも)は、み国に招かれている者の中で一番小さな者は自分たちであろうと思ったに違いありませんが、しかし、そんな者たちでも、たとえ取税人であっても、すぐれたヨハネに優っていると言われるのです。また、こんなにも大きな罪を犯した者ですと顔を上げることすら出来ないような私たちでさえ、イエスさまの福音に招かれているのだから、ヨハネに優る者であると宣言してくださるのです。何と光栄なことではありませんか。

 イエスさまの目が再び周りを取り囲んでいる民衆に注がれます。「ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちさえ、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを認めたのです。これに反して、パリサイ人、律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、神の自分たちに対するみこころを拒みました」(29-30) 多くの注解者は、ここを二つの生き方のどれを選択するかというイエスさまの問いかけであろうとしており、確かにそんな問いかけも聞こえてきます。しかし問題が残ります。最初の3つの問いから、民衆にはヨハネに対する誤解がひそんでいると聞きましたが、そう指摘することでイエスさまは、彼らの不信仰を告発されたのではないかと思われるのです。そんな人たちがヨハネのバプテスマを受けて、「神さまの正しいことを認めた」とはとても思えません。そもそも神さまは、人間どもの小賢しい正しさなどには住まわれないお方です。ヨハネが施していたバプテスマは、いみじくもメシアたるイエスさまの前に道を整えようと悔い改めをせまるものでしたが、民衆もまたパリサイ人たちと同罪だという、イエスさまの鋭い指摘が聞こえてくるようです。

 そのことは、次のフレーズで一層はっきりしてきます。「では、この時代の人々は、何にたとえたらよいでしょう。何に似ているでしょう。市場にすわって、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、泣かなかった』というわけは、バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、『あれは悪霊につかれている』とあなたがたは言うし、人の子が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言うのです」(31-34) 市場で、子どもたちが無邪気に遊んでいます。当時のはやり歌を歌っていたのでしょうか。子ども好きのイエスさまは、そんな子どもたちの遊びをよくご覧になっていたのでしょう。あなたたちはまるでそのようではないか。悔い改めをせまっても反応せず、福音を聞いても喜ばない。イエスさまにもヨハネにも自分たちと同じ価値観を要求してやまないそれは、怖ろしいまでに現代人の生き方に重なってくるではありませんか。「だが、知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します」(35) 知恵とはイエスさまやヨハネのこと、神さまの領域のことを指し、「すべての子どもたち」とは信仰者のことでしょう。聖徒たちがみ国に招かれる・そんな終末を迎えた時に、「しまった!」と悔やむことがないよう、イエスさまが両手を広げて待っておられる間に、救い主の翼のもとに身を寄せようではありませんか。