ルカによる福音書

29 光彩を放つものは

ルカ 7:18−23
イザヤ 61:1−3
T 最後の証言を

 「さて、ヨハネの弟子たちは、これらのことをすべてヨハネに報告した」(18) このヨハネはバプテスマのヨハネのことですが、彼の弟子たちは、イエスさまの動向を最大もらさずヨハネに報告していました。それを聞いたヨハネは、今、改めてイエスさまのもとに二人の弟子を遣わします。

 この時ヨハネはマケルスの砦に幽閉されていました。そこは、古い砦をヘロデ大王がアラビヤへの防衛線として改築した戦闘用の砦でしたが、それを息子ヘロデ・アンティパスが譲り受けて遊び用の宮殿に作り直し、しばしばお気に入りの人たちだけを連れて羽を伸ばしに行く、そんな別荘でした。もともと人里離れた戦闘用の砦で、死海海面から1200mもある断崖絶壁の上にあったためでしょうか、テベリアから移されたヨハネは比較的自由な幽閉生活を過ごしていたようです。弟子たちはしばしば面会に来ていましたし、ヨハネが彼らを招くことも可能でした。ルカは3章でヨハネ幽閉のことを、「国主ヘロデは、その兄弟の妻ヘロデヤのことについて、また、自分の行なった悪事のすべてを、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込め、すべての悪事にもう一つこの悪事を加えた」(19-20)と記し、ヨハネの動向に関心を寄せています。ルカは、執筆しているイエスさまの物語の中で、ヨハネを神さまから遣わされ、イエスさまの前に道を整えた者であると高く評価していました。それはイエスさまがガリラヤでのお働きを始める直前だったようですが(マルコ1:14)、ルカは、イエスさまが登場して来たからにはもう彼の出番はないと、極めて冷静な目でヨハネを見つめています。イエスさまを指し示したなら、ヨハネは消えていく者であったと言っているようです。

 イエスさまにバプテスマを授けた時から、このお方がメシアであろうと、その動向に注目していたヨハネでしたが、それを見届ける時間がいくらも残されていないのに、いっこうにイエスさまは立ち上がる気配を見せません。彼はヘロデヤの強い憎しみを感じていましたから、恐らく、処刑されるのも間近いだろうと予測していました。もしかしたらヨハネは、来るべきメシアが、民衆の先頭に立つ武力闘争の指導者とまではいかなくても、理想の王国を造り上げるお方であろうと思っていたのでしょうか。メシアとしての名乗りを上げないイエスさまのもとに二人の弟子を遣わしたのは、メシアの前に道を整える者としての務めを最後まで果たそうとしているヨハネの、神さまに対する責任意識だったかと思うのです。これをルカは、イエスさまについてヨハネがなし得る最後の証言と受け止めていますが、ヨハネのことを語りながら、ルカの中で、時の中心はあくまでもイエスさまなのです。


U 神さまから遣わされた者として

 恐らく、イエスさまの動向を何度も報告していた弟子たちの情報は、目撃したことやお話を直に聞いたことを中心に、中にはうわさという情報も含まれていたのではと思われます。それらを総合して、しかしヨハネは、イエスさまこそメシアであるはずなのに、「なぜ?」という疑問を捨てきれないでいました。遣わした弟子たちに、「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか」と、イエスさまに問いかけさせます。「おいでになるはずの方は、あなたですか」という問いかけは率直なもので、裏も何もありませんが、続く「それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか」という問いには、「あなたなのでしょう」という切ないヨハネの気持ちが感じられます。イエスさまがメシアなのか、そうではないのか、イエスさまご自身がその答えを持っていらっしゃると、ヨハネはいささかも疑ってはいません。彼は、イエスさまをメシアではないと否定しているわけではないのです。ただ、彼には焦りがあって、愚痴っぽく質問を繰り返しながら、イエスさまの立ち上がりをうながしたのではないかと思うのです。「間もなく消えていく私です。どうぞ、早くメシアとして立ち上がって、そのお姿を私に見せてください」と。

 しかし、内心に一抹の不安を抱きながら、ヨハネは極めて正式にこの問いかけをします。ルカだけが記した「二人の弟子」というのは、公人が遣わす正式の使者とみるべきでしょう。彼らは、「バプテスマのヨハネから遣わされてまいりました」(20)と宣言しました。これまでにも、ヨハネの弟子たちは何人もイエスさまに近づいており、中には、ペテロやアンデレのようにイエスさまの弟子になった者たちもいます。しかし、自分たちがヨハネの弟子であり、彼から遣わされた者であると明らかにしたのは始めてのことでした。そして、ルカ(ルカだけ)は、イエスさまに面会した彼らにこのヨハネの問いかけを忠実に反復させていますが、それは、ヨハネを神さまから遣わされた公人として、敬意を表しつつ、あえて二度もヨハネのメッセージを記録したのであろうと思われます。


V 光彩を放つものは

 ヨハネの質問にイエスさまが答えられる前に、ルカは、「そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた」(21・新共同訳)という句を挿入しています。その不思議の一部が、百人隊長のしもべのいやし(7:1-10)やナインの町で亡くなった青年の生き返った(7:11-17)記事なのです。それらは弟子たちの訓練のためでしたが、ルカは、バプテスマのヨハネの質問に関連した伏線としての意味も込めて記したのでしょう。続くイエスさまのお答えには、もっといろいろとたくさんの「しるし」が上げられていますが、ルカは、そのすべてを包括した言い方を、他にも多く見られる彼独特の挿入句として記したものと思われます。

 ヨハネの二人の弟子に、イエスさまはこうお答えになりました。「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。盲人が見えるようになり、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者に福音が宣べ伝えられています」(22) これはイエスさまのメシア宣言ですが、イエスさまをメシアとして迎え入れるか否かは、イエスさまがなさるわざを見、そして、イエスさまが語られる福音を聞いた人たちの判断にゆだねられているということでしょう。私たち人間は、どうも、自分の見たいことだけを見、聞きたいことだけを聞くという自己中心に生きているようです。見たいように見、聞きたいように聞くのは私たちの特技かも知れません。そんな私たちに、イエスさまは、「わたしがキリスト、あなたの救い主である」と宣言し、「あなたはわたしを信じるか」という問いかけをしておられるのです。見る目をもってイエスさまのなさることを見るなら、イエスさまがそのお方であると分かる筈です。イエスさまを見る目、それが私たちの信仰ではないでしょうか。「だれでも、わたしにつまづかない者は幸いです」(23)というイエスさまのことばは、その意味で聞かなければなりません。

 イザヤ書にこうあります。「その日、耳しいた者が書物のことばを聞き、盲人の目が暗黒とやみの中から物を見る。へりくだる者は主によっていよいよ喜び、貧しい人はイスラエルの聖なる方によって楽しむ」(29:18-19)「神は来て救われる。そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う」(35:5-6)「神である主の霊がわたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた」(61:1) イエスさまのことばと合致するではありませんか。しかしイエスさまは、数々の奇跡を振りかざして、それをメシア宣言とされたわけではありません。それらの不思議は、預言者のことばにたどり着いて始めて光彩を放つのです。それが神さまのことばから出て来たことだからです。ヨハネの再登場は、まさに、イエスさまが神さまのことばに裏打ちされた本物のメシアだという、この証言のためだったのでしょう。ヨハネは退場していきましたが、神さまのことばは、今もなおイエスさまを救い主であると証言してやみません。心して聞いていきたいと思います。