ルカによる福音書

26 イエスさまだけを

ルカ 6:39−49
箴言 3:21−26

T イエスさまのレベルに

 「イエスはまた一つのたとえを話された」(39)と、平野の説教の最後の話が始まります。一つのたとえとは、「いったい、盲人に盲人の手引きができるでしょうか。ふたりとも穴に落ち込まないでしょうか」(39)というものです。40節以下にもいくつものたとえがありますが、恐らく、それら全部はこのたとえにかかっており、全体で一つのことが語られていると思われます。

 「盲人が盲人の手引きをする」 この格言は古代社会に広く流布していたもののようですが、マタイはこれをユダヤ人宗教指導者パリサイ人に向けたものとしています(15:14)。それをイエスさまは今、弟子たちの訓練の場で言われます。今朝のテキストは弟子たち、特に立てられたばかりの使徒たちを意識して語られたようですが、教会の指導者としてあらゆることの模範となっていかなければならない状況を間近に控え、彼らにもまた同じ落とし穴が待ち受けていると、深く心に刻んでおかなければならなかったのでしょう。福音を伝えるべく彼らが接しようとしている人たちは、まさに盲人にも等しい人たちでした。その生活は、自分の目に梁があることに気がつかず、他人にお節介ばかりして、まるで土台のない地面(マタイでは砂)の上に家を建てているような有様でした。使徒たちは、ここで一緒にイエスさまの話を聞いている民衆の、そんな生活の場に入っていくわけですから、あるところでは彼らと同じになる必要があったでしょう。しかし、福音を担う者のレベルにおいては、断じて彼らの仲間であってはならなかったのです。

 その「福音を担う者のレベル」がいくつか語られます。順番を追ってみていきましょう。
 一番目は40節です。「弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師くらいにはなるのです」 これも流布していた格言ではなかったかと思われますが、そこにイエスさまと使徒たちが重ね合わされているようです。彼らに、イエスさまのレベルを見つめて欲しいというのでしょう。やみくもに訓練を受けるのではなく、イエスさまのレベルを見つめることでそこに近づいていく、それは、神さまのレベルをいうのではありません。神さまのレベルと言うことになりますと、人間の思いをはるかに超えてしまいますが、そうではなく、人の子として、少なくともイエスさまの知性や感性は、イエスさまご自身が意識して訓練されたものではなかったかと想像するのです。恐らく、そのことが言われていると思われます。もちろん、病人を癒すなどミステリーな部分の訓練も受け、彼らはその力を持つようになりますが、それらは訓練というよりむしろ、イエスさまがその力をお与えになったということでしょう。


U 十字架の赦し

 二番目は、「あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、『兄弟。あなたの目のちりを取らせてください』と言えますか。偽善者たち。まず、自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです」(41-42)というところです。 「ちり」や「梁」は人の罪を指していると思われます。罪を云々する時に、使徒たちは自分の罪が他の人たちよりもずっと大きいのだと知らなければなりませんでした。その罪が赦されたのです。その赦しの大きさが、福音を伝える者の何よりも大切な条件になっていると、現代の私たちも知らなければなりません。ともすれば、他の人の罪を指摘する時に、自分は正しいというところで眺めてしまいますが、そんなことがあってはならないとイエスさまは戒めておられるのです。赦しこそ福音を担う者の唯一のメッセージなのですから。彼らはイエスさまの十字架を語らなければならなかったのです。そのように聞きますと、「悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら、人の口は、心に満ちているものを話すからです」(43-45)と言われたことも、彼らの内側を「わたしの十字架の赦しで満たしていなさい」というイエスさまの福音の原則が教えられたものと理解することができるではありませんか。彼らは福音を伝える(語る)ために使徒として召し出されたのです。福音を伝える時に、当然ながら、伝える者がその福音に招かれていることが大原則であると、肝に銘じておきたいですね。


V イエスさまだけを

 イエスさまが語られた福音を担う者のレベルの三番目、最後です。「なぜわたしを『主よ。主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう」(46-47)と、まず「聞きなさい」と注意を促します。現代風ですと、「アテンション プリーズ」というところでしょうか。「その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家はいっぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものでした」(48-49)

 イエスさまのお話を理解するためには、ガリラヤ地方の地形や気候を理解しなければなりません。簡単に説明しましょう。ヨルダン渓谷から死海にかけて海面下何百メートルという深い溝がありますが、それは西の地中海、また東のアラビヤの砂漠から、年に数ミリの速度で動いて来た二つのプレート(岩盤)が衝突して地球の奥深くに潜り込んでいく場所になっているためです。その岩盤が、衝突する前に盛り上がって溝の両側に深い山々を形成し、その堅い岩盤の上には厚い石灰岩の層があり、その上に10メートルほどの砂や土の層があるそうですが、これがいかにも薄いのです。ところで、その地方には年間600ミリを超える雨が降り(日本の平均年間降雨率は1200ミリ)、それが10月と3月の雨期に集中し、ものすごい豪雨となって湖に流れ込んでいくのです。家を建てる時には、その石灰岩の層まで10メートル近くも掘って土台を据えるらしいのですが、この家を建てるのが、専門の大工ではなく、親戚や隣近所の人たちに手伝ってもらいながら自分で建てるというのが当時の原則でしたから、きちんとした土台を据える人も、そうでない人もいたということなのでしょう。

 そんな、ガリラヤの人なら実際に何度も体験していることを用いながら、土台の大切さを教えられますが、土台とはもちろんイエスさまのことであり、地面とはもしかしたらアダム(人間)を指しているのかも知れません。ルカはわざわざ土台ということばを用いていますが(マタイにはない)、それは彼の師パウロに学んだものでしょう。「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。その土台とはイエス・キリストのことです」(Tコリント3:10-11) 家とは恐らく、信仰者としての自分自身のことでしょう。しかし、イエスさまを信じる群れ(教会)である家を建てようとしている彼ら使徒たちにとって、それを肝に銘じておくのは大切なことでした。なぜなら、教会を建てようとする時、そのアダム(人間)の知恵や価値観を土台にする危険性が大いにあったからです。そのような土台の上に……、それは私自身にひそむ問題の一つとも聞こえてきます。洪水の破壊力とはサタンの力のことであり、イエスさまも経験していたその力が、必ずや彼ら使徒たちの前に立ちふさがると警告しているのでしょう。人間を土台にするなど、まさにサタンの思うつぼではありませんか。イエスさまだけを見つめ、そのことば(聖書)だけを聞いていたいと願います。それこそ何事にも動かされない土台を据えることなのですから。