ルカによる福音書

25 赦す愛のうちに生きて

ルカ 6:27−38
レビ 19:9−18

T 敵を愛することを

 イエスさまの「平野の説教」が続きます。「しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしは言います」(6:27) 「しかし」ということばは、前のフレーズに「人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです」(22)とあるところに接続しているようです。22-26節に語られた4つの「幸い」と4つの「わざわい」の、そこが中心なのでしょう。前回、そのところから、イエスさまを信じる者たちに迫害の手が伸びて来るというメッセージを聞きました。使徒たちも殉教し、後の時代にも、尊い血を流したたくさんの信仰の先輩たちがいました。きっと先輩たちは、主の十字架を思いながら殉教していったのでしょう。私たちも、そのような先輩たちに、そして、何よりも主に倣う道を歩みたいと願います。イエスさまが弟子たちに話しておられるその時、もはやそのような迫害の手が伸びようとしており、律法学者やパリサイ人などユダヤ人指導者たちが、「どうしてやろうかと話し合って」(6:11)イエスさまをつけ狙い始めていました。「どうしてやろうか」とは、「殺す」ことさえ視野に入れているということです。イエスさまから全権を託された使徒たちが各地に遣わされていくこれから、彼らも同じ迫害のターゲットになることは目に見えているでしょう。そんな状況の中で、イエスさまは言われます。

 「しかし」「あなたの敵を愛しなさい」「あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません」(6:27-30)と、イエスさまは非常に厳しい生き方を弟子たちに課しました。一見しますと、これは無抵抗主義のようにも見えますが、実はそんな消極的なものではなく、積極的に敵さえも愛していくのだという生き方を教えているのでしょう。敵という言い方はユダヤ人指導者たちを指すのでしょうが、恐らく、時代や国を超えて、信仰者に敵対する者たちをも含めていると感じられます。日本でも、太平洋戦争の時に、信仰を守り通して獄死した先輩たちがいます。私たちの時代に、そんなことが起こらないという保証はありません。むしろ、少しづつそんな時代が近づいていると言えそうな最近の情勢ではありませんか。そのような中で、「敵を愛する」などということが、本当に私たちに出来るのでしょうか。無抵抗という生き方でさえむつかしいのに、積極的に自分のいのちを差し出せと言われるに等しいことを、イエスさまは要求されているのです。


U モーセの律法に生きる

 ところで、「平野の説教」は弟子たちへのものであると聞いてきました。しかし、そこには多くの民衆もいたことを忘れてはなりません。恐らく、4つの幸いと4つのわざわいの、特に4つのわざわいは、はっきりとは言い切れませんが、彼ら群衆向けのメッセージでは……と思われます。

 しかし、31節からは、イエスさまの目がはっきりと群衆に向けられているようです。「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい」(31) これは黄金律と呼ばれています。近年、自己中心の風潮が恐ろしい勢いで広がっています。万引きが多いですね。みんながやっているから私もやらなければ損という感じでしょうか。訳もなく人を殺して、「むしゃくしゃしたから誰でも良かった」など全くひどいものですが、イエスさまの時代にもそんな自己虫の風潮があったのでしょうか。「自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。貸した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ、罪人たちに貸しています」(32-34)と言われます。この「貸す」ということについて、恐らく、イエスさまは大きな問題を感じておられたのだろうと思われます。モーセの律法には、「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちでも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。進んであなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。……必ず彼に与えなさい。また与えるとき、心に未練を持ってはならない……」(申命記15:7-10)とあります。イエスさまが、「彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深くしなさい」(35-36)と言われたことも、ユダヤ人民衆からこのようなモーセの律法が抜け落ちていたためではなかったかと思うのです。


V 赦す愛のうちに生きて

 「あなたの敵を愛しなさい」(27)と言われました。今、イエスさまは群衆に向かって同じことばを繰り返します。「自分の敵を愛しなさい」(35) 黄金律から始まる教えは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ記19:18)という、ユダヤ人にとって律法そのものとでもいうべき教えを根底にしているのでしょう。そうしますと、ここに語られるメッセージは、彼ら群衆に、忘れていた律法の中心を思い出してほしいと願われてのことではないでしょうか。そして、イエスさまの願いは、モーセの律法をはるかに超えた、神さまのレベルを見つめて欲しいというものでした。「愛」がイエスさまのお話の中心なのです。それも、自分を愛してくれない人を愛しなさいと。イエスさまの十字架がここに語られているではありませんか。22節に「あなたがたの名」とありました。それは、弟子たちに共通の、イエスさまを信じる者という名のこと、突き詰めて言いますと、クリスチャンはイエスさまという名を身に帯びているのです。イエスさまが憎まれ、はずかしめられ、除名され、その名が悪しざまにけなされるのです。ですから、「憎む者には善を、のろう者には祝福を、侮辱する者のために祈りを」と言われるのは、イエスさまの名を帯びた者たちの、イエスさまとともにある生き方を言っているのです。「片方の頬を打つ者にはほかの頬をも、上着を奪い取る者には下着をも、すべて求める者には与えなさい」とは、イエスさまの生き方そのものでした。イエスさまは、そのことば通りの生を生き、求める者にご自分のいのちさえお渡しになったのです。

 「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです」(37-38) これも民衆への話なのでしょうが、そのつもりで聞くと、とてつもなくむつかしいものです。ところが、弟子の一人として聞くと、何となく分かるような気がするのです。イエスさまの目が再び弟子たちに注がれたのでしょうか。間もなく、弟子たちはイエスさまの福音をたずさえて、独り立ちしようとしています。それにはもう少し時間がかかるのですが、彼らは、福音の中心が「罪の赦し」であることを学び取らなければなりませんでした。使徒行伝の時代になりますと、これがペテロなどのメッセージに繰り返し語られています。ここで民衆に語られたことも、弟子たちの訓練の教材だったのかも知れません。私たちも弟子の一人として、このような生き方を志したいですね。イエスさまとともに歩む時、このような志しを持ち続けることが出来るのではと期待しようではありませんか。