ルカによる福音書

24 主に倣う道を

ルカ 6:17−26
申命記 30:1−6

T 弟子の一人として

 イエスさまは、12人の使徒たちを選ばれた後、「彼らとともに山を下り、平らな所にお立ちになった」(6:17)と新しい展開へのスタートを切られました。この時期、「多くの弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、さてはツロやシドンの海べから来た大ぜいの民衆がそこにいた」(17)とありますから、ガリラヤ地方における働きの最高潮に達した時期と思われます。〈新しい展開〉とは、間近にせまった弟子たちとの別離を見据えながら、誕生したばかりの使徒たちを中心とする弟子たちの訓練に力を注ごうとするものです。その訓練をイエスさまは、「山を下り」て民衆の中でなさろうとしておられるようです。「イエスの教えを聞き、また病気を直していただくために来た人々である。また、悪霊に悩まされていた人たちもいやされた。群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしていた。大きな力がイエスから出て、すべての人をいやしたからである」(18-19)とあるのは、この時の状況であると同時に、この新しい展開の働きを要約するものでもあったと思われます。20節から9:17まで、イエスさまはたくさんの人をいやされ、不思議な力を行使され、彼らを教え、また、彼らを町々村々に遣わされます。以降、イエスさまはガリラヤ地方を後にされ、いよいよエルサレムへの道を踏み出されるのですが、それまでの期間を、使徒たちとともに過ごす残り少ない貴重な時間として、とても大切にしておられるように感じられます。

 その訓練の一つ、20節から「教え」が始まります。このお話しは、マタイ5-7章の「山上の説教」と同じとする人たちもいますが、多くの人たちは別の時に話されたものと考え、「平らな所」とあることから、これを「平野の説教」と呼んでいます。「イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた」(20) もちろん、集まった群衆も聞いていましたが、これは今任命されたばかりの12人の使徒たちを中心とする弟子たちへのメッセージと聞いていいようです。同じメッセージでも、イエスさまの弟子であろうとして聞くなら、大勢の中にまぎれて聞くのとは違った聞き方になるのではないでしょうか。私たちもこれを弟子の一人として聞いていきたいと願います。


U 幸いとわざわいを前にして

 今朝は、この説教の最初の部分(6:20-26)を取り上げたいと思いますが、ここには、「幸いです」という4つのメッセージと、「哀れな者です(岩波訳:禍だ)」という4つのメッセージとが語られています。7つ或いは8つの「幸い」が語られているマタイの山上の説教とはこの点でも明らかに違うのですが、ここでイエスさまが語られたことは、恐らく、「見よ。私は、きょうあなたがたの前に、祝福とのろいを置く。もし、私がきょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、取の命令に聞き従うなら、祝福を、もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私がきょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える」(申命記11:26-29)と、かつてモーセがイスラエルに命じたように、神さまに向かう基本的な姿勢を教えたものなのでしょう。イスラエルの半数はゲジリム山に登り律法の祝福の章句を朗読し、半数はエバル山に登ってのろいの章句をというものですが、モーセの後継者ヨシュアは忠実にそれを守り(ヨシュア8:30-35)、以後、イスラエルはずっと神さまの祝福とのろいとを聞かなければなりませんでした。ゲジリム山とエバル山は、やがてその間にイスラエル初期の聖所が造営されたシケムを挟んで向かい合ったカナン中央部の山です。少し蛇足ですが、「わざわい」を語り継ぐということに人は抵抗を感じるのでしょうか。時代が下ってくるにつれ、いつしかエバル山でのろいの章句を朗読する習慣は失われてしまいました。しかし、マタイの山上の説教にのろいの部分が欠けているのは、そんな時代のせいではなく、イエスさまご自身が十字架におかかりになることで、のろいの部分を引き受けられたからと言えるでしょう。ところが、「平野の説教」では、「幸い」と「わざわい」の両方という古い形を残したまま語られています。イエスさまは、すっかり忘れられてしまったイスラエルの原点を覚え、そこから、「のろい」の部分を生きている当時のユダヤ社会の状況をよくよく把握するように、弟子たちの目を訓練したのではと想像します。その暗い部分を見つめないでは、イエスさまの福音が「幸いなるかな」という祝福に満ちている理由を理解できないためではないかと思うのです。


V 主に倣う道を

 さて、イエスさまのメッセージが始まります。その4つづつの祝福と呪いは、いづれも正反対の生き方を対比させています。組み合わせながら読んでみましょう。第1番目、「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから」(20)「しかし、富んでいるあなたがたは、哀れな者です。慰めをすでに受けているからです」(24) 第2番目、「いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから」(21)「いま食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です。やがて、飢えるようになるからです」(25) 第3番目、「いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから」(21)「いま笑っているあなたがたは、哀れな者です。やがて悲しみ泣くようになるからです」(25) 第4番目、「人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです。彼らの先祖も、預言者たちをそのように扱ったのです」(23)「みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです」(26) 

 まず1番目の対比です。「貧しい」、これは文字通り貧しいことで(マタイの「心の貧しい者」という言い方とは違う)、弟子たちに当てはまるのでしょう。きっと、当時のユダヤ人社会にあった、「富んでいる者」は神さまの特別な祝福を受けているという意識から、弟子たちが解放されるようにとの配慮を感じます。ここから、富む者になりたいという意識を捨てなければ、イエスさまの弟子としての歩みを続けていくことはできないというメッセージが聞こえてきます。富む者は、実は、貧しい人たちから絞り上げて富んでいるのだという、モーセの律法に禁止された搾取(申命記15)がないがしろにされた、当時の社会状況が浮かんでくるではありませんか。ただ、私たち現代社会に生きる者にとって、富む者が悪く、貧しい者がいいと、一律に判断することがあってはなりません。貧しくとも、神さまのことばに従い、神さまとともに歩む時に、「神の国はあなたがたのものですから」という祝福を聞くことが出来ると覚えて頂きたいのです。しかし、「富む者」は「慰めをすでに受けている」と言われます。これは「神の国に生きるようになる」人たちに対して、「人間社会に生きる」者たちを言っているのでしょう。何を見つめるかによって、迎え入れられる世界が違ってくる。これは私たちの選択にかかっているのではないでしょうか。貧しい者、富む者、いづれにも「あなたがたは」と言われており、弟子たちはそのどちらにもなる可能性があったわけです。そして、第2、第3のいづれも、恐らく、1番目と同じことが強調して繰り返されたのでしょう。

 4番目に注目して頂きたいのですが、イエスさまの弟子であるということで、人々から憎まれ、除名され、はずかしめられる……、そんなことが起こると言われるのです。実際、使徒たち、そして各時代の先輩たちもそんな目に遭い、殉教した人たちも多く出ました。きっと、「貧しい」ことも、「飢える」ことも、「泣く」ことも、同じ道への歩みなのでしょう。ここに語られたことは、イエスさまご自身に起ったことでした。そして、使徒たちは主に倣う道を選び通したのです。この終末時の現代、あなたがたはどうかと問われています。私たちも主に倣う同じ道を共に歩みたいではありませんか。