ルカによる福音書

22 愛の側に? それとも

ルカ 6:1−11
箴言 10:12

T 安息日に

 イエスさまの評判を聞いて、イエスさまの人物チェックに来たパリサイ人と律法学者の代表者たちは、中風の人の癒しで(5:17-26)、まず、「あなたの罪は赦されました」と言われたイエスさまのことばにつまづき、続いてマタイの召命で、イエスさまを信じ喜ぶ人たちの中に加わるよう求められながら、どうしても加わることが出来ません。かえって彼らは、イエスさまへの反発心をかき立て、あと少しのきっかけさえあればイエスさまとの対立が決定的になるほど、その反発心は溢れんばかりになっていたのでしょう。今朝の6:1-11は、そのきっかけとなる出来事で、以後、彼らはイエスさまを十字架につける立て役者になっていくのです。

 ルカは二つの出来事を取り上げましたが、まず第一の出来事から見ていきましょう。
 「ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた。すると、あるパリサイ人たちが言った。『なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか』」(6:1-2) 高校生のころ、麦だけを炊いて食べようとしたことがありますが、あまりに不味く、どうしても喉を通っていきませんでした。同じ麦ではないかもしれませんが、そんな麦を、弟子たちは生のまま手でもんで柔らかくしては食べていました。よほど空腹だったのでしょう。申命記には、「隣人の麦畑の中にはいったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない」(23:25)とあり、空腹を満たすために麦畑からわずかな麦の穂を摘んで食べることは許されていましたから、弟子たちの行為は「盗み」には当たりません。ですからパリサイ人たちも、その行為自体を咎め立てしてはいないのです。それより、その日が安息日でしたから、彼らは弟子たちの行為を収穫に当たると判断し、「安息日にしてはならない」と咎めました。

 ところが、イエスさまは彼らに、「あなたがたはダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。ダビデは神の家にはいって、祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンを取って、自分も食べたし、供の者にも与えたではありませんか」(3-4)と答えられます。これはTサムエル21:2-6にある、ダビデが聖なるパンを食べた出来事を言ったものですが、レビ記24:5-9から補足しますと、そのパンは安息日ごとに供えられるものでした。ここには彼らの反応が何も記されませんが、それはきっと、彼らの中に、「おまえはダビデ以上の者か」という反発心が渦巻いていたということなのでしょう。イエスさまが、「人の子は、安息日の主です」(5)とメシア宣言をされたことも、そんな彼らへの挑戦ではなかったかと想像します。


U 罪に支配されて

 イエスさまと彼らの緊張を記したもう一つの記事です。「別の安息日に、イエスは会堂にはいって教えておられた。そこに右手のなえた人がいた。そこで律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった」(6-7) 前の記事で、パリサイ人たちは、イエスさまたちの中心問題として、安息日遵守を取り上げました。それは、たまたま麦畑の近くを通りかかったパリサイ人たちがその光景を目撃したというのではなく、イエスさまへの反発が芽生えてからずっと、彼らは、何か落ち度はないかとイエスさまたちをつけ回していたということなのでしょう。そして、イエスさまたちは安息日遵守の掟を守らないと、その点に的を絞って、イエスさま追い落としの作戦を練り上げたものと思われます。もしかしたらそれは、イエスさまの人物チェックに派遣された人たちだけの判断ではなく、その報告を受けたエルサレムのパリサイ人や律法学者たちといった、この国の中心的指導者たちが、イエスさまを追い落とすために力を注ぎ始めたということなのかも知れません。

 「別の安息日に」とありますが、麦畑での出来事から、恐らく数週間経っていると思われます。その間に練り上げられた作戦を秘めて、イエスさまたちをつけ回していた彼らにチャンスが巡ってきました。安息日にイエスさまたちが入っていった会堂で、彼らは右手のなえた人を見かけました。「イエスはきっとその人を癒すにちがいない」と、彼らはそのことばかりに気を取られています。「イエスさまを訴える口実を見つけるため」と、ルカの記録には彼らの悪意が生々しく描かれていますが、まさに、彼らは神さまを礼拝する神聖な会堂内で、礼拝そっちのけの悪意を実行しようとしています。私たちには、彼らのような、礼拝そっちのけの悪意というケースはまずないと思われますから、これはユダヤ人だけの問題だろうと考えてしまいますが、悪意のもとになる憎しみや怒りなどの感情は、決して私たちと無縁ではありません。それは私たちから優しさや思いやりをなくしてしまい、「罪」とは、そんなふうに私たちを支配してしまうと、覚えておかなければなりません。


V 愛の側に? それとも

 もちろん、イエスさまはすぐにその右手のなえた人に気づきました。また、じっと見つめている律法学者たちの悪意のこもった視線にも……。そして、右手のなえた人に「立って真中に出なさい」と言われますと、彼は起き上がって前に出ました。「起き上がって」とありますから、横になっていたのかも知れません。安息日に会堂に来てはいましたが、かなり身体が弱っていたと思われます。その辺りの事情は何も記されていませんが、医者ルカは、入手した資料から、そのような判断をしたのではないでしょうか。彼が前に立つと、イエスさまは人々に言われました。人々の中にパリサイ人と律法学者が含まれていることは言うまでもありません。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか、どうですか」(9)

 イエスさまは、律法学者たちの律法遵守に欠けたところを、彼らだけにではなく、安息日に会堂で礼拝を守っている人々を通して、人間全体に問いかけました。彼らの教えられた律法を守ろうとする思いは、もちろん、選民イスラエルの神さまの前に立とうとする純粋な思いから出ているのでしょうが、そこに人への愛がなければ、神さまに対する誠実も不毛だと、イエスさまは信仰者のもっとも基本的な立ち方を教えられたのではないかと思われます。繰り返しますが、私たちの神さまを愛する心は、人への愛に凝縮されていくのです。しかし、順序を間違えないで頂きたいと思うのですが、まず神さまがあなたを愛してくださった。それは、イエスさまの十字架に凝縮されています。そのところで、私たちの神さま(イエスさま)を愛する思い(信仰と言い換えたらいいでしょうか)も育っていくのです。そして、その愛が「あなたの隣人への愛は?」に展開されていくのです。「善を行なう」とは、傷つき病んでいる人たちへの愛を実践することであり、「悪を行なう」とは、律法学者たちの、律法を振りかざして弱者への配慮を放棄することを指して言われたのでしょう。ここに、神さまへの愛、また隣人への愛がないことは悪(罪)であるという、聖書の中心メッセージが語られているようです。 

 「そして、みなの者を見回してから、その人に『手を伸ばしなさい』と言われた。そのとおりにすると、彼の手は元どおりになった」(10)と、「すると彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと話し合った」(11)という最後の2節は、その中心メッセージへの両極を言っていると思われます。イエスさまがなさった不思議は、愛が溢れたものであり、そこに十字架の姿が重なってくるでしょう。しかし、律法学者たちの怒り、憎しみは、人間というものの醜い罪の姿を代表しているのではないでしょうか。そして、彼らのその姿は、終末を色濃くしている現代人に重なってくるではありませんか。箴言の記者が「憎しみは争いを起こし、愛はすべてのとがを覆う」(10:12・口語訳)と言っていますが、「あなたはどちら側に立とうとするのか」と、ルカからの問いかけが聞こえてくるようです。もちろん、イエスさまの側につきたいですね。