ルカによる福音書

21 新しい皮袋に

ルカ 5:36−39
イザヤ 40:27−31

T 花婿とともに

 マタイ召命の記事の続きです。前回のところ(5:27-35)を少し触れておきましょう。「あなたの弟子たちは断食日を守っていない」と、律法学者たちがイエスさまにクレームをつけました。イエスさまは、「花婿がいっしょにいるのに、花婿につき添う友だちに断食させることができますか」(34)と言われます。これは、ご自分が花婿(メシア)だという宣言ですが、彼らは、どうしてもイエスさまをメシアであると信じ喜ぶ人たちの仲間に加わることは出来ません。そしてイエスさまは、納得しない彼らのために、二つ(一つ?)のたとえをお話になりました。今朝はそのところからです。

 「だれも、新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、その新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです。また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません」(5:36-38)

 今、マタイの家で行われているこの食事の席に座っている大半の人たちは、それほど裕福ではなく、きっと継ぎがいっぱい当たった上着を着ていたのだろうと想像します。そして、食卓の上にはぶどう酒がたくさん出され、みんな実に楽しげに飲んだり食べたりしています。イエスさまは、その食事風景を好ましげに眺めながら、目についた「着物」と「ぶどう酒」を題材に、律法学者たちばかりか、その席にいる者、そして現代の私たちにまで、大切なことを教えようとされたと思うのです。

 ユダヤ人は非常に大きな布で出来た上着をまとっていました。その上着を、貧しい人たちは年から年中ほとんど一枚だけで過ごしており、しばしばそれは布団代わりにもされました。ですから、それは古く、継ぎもたくさん当たったみすぼらしいものだったに違いありません。イエスさまの上着も似たようなものだったのではないでしょうか。ところが、このお話の聞き手である律法学者たちは、貧しい者たちとは違い、新しく立派な上着を何着も持っていました。


U ご自分のいのちさえも

 ですからイエスさまは、「もし、隣人の着る物を質に取るようなことをするのなら、日没までにそれを返さなければならない。なぜなら、それは彼のたった一つのおおい、彼の身に着ける着物であるから。彼はほかに何を着て寝ることができよう」(出エジプト22:26-27)とある律法の心を、彼らに問いかけたのではないかと思うのです。「隣人の着る物を質に取る」ような人たち、きっと、彼ら律法学者たちもそのような一人に数えられたのでしょう。そして、「日没までにそれを返さなければならない」と言われる律法の心は、当時、全く省みられなくなっていました。それなのに、彼らは年に一度だった断食日を週二回にも増やすことには熱心なのです。

 イエスさまが意図して言われたかどうかは分かりませんが、「新しい着物」を彼ら律法学者自身とし、「古い着物」を貧しい一般民衆と仮定して考えてみましょう。貧しい人たちのために、自らを犠牲にして貧しい人たちを助けるような律法学者は、恐らく皆無に近かったでしょう。もし、そのようなことをしようとする人が現われたなら、他の律法学者や周辺にいる人たちは猛反発するにちがいありません。なぜなら、そのような価値観は彼らが安住している社会の崩壊を招いてしまうからです。そう考えますと、「そんなことをすれば、その新しい着物を裂くことになる」という表現がぴったり当てはまるではありませんか。そして、貧しい人たちのためにと考えた人を、貧しい人たちが自分たちの仲間として受け入れるでしょうか。答えは「否」です。なぜなら、それは彼の一時の気まぐれにすぎないからです。「新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです」と言われたことも、まことに当を得ていると言わざるを得ません。ペレヤの若い役人の質問にイエスさまが答えられたことを思い出します。「永遠のいのちを得るために何をしなければなりませんか」「あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」(マタイ19:16-24) 彼にとっても、律法学者にとっても、それは「らくだが針の穴を通る」より難しい選択でした。しかし、ご自分のいのちさえ投げ出してくださるお方がここにいると、このたとえは、その宣言なのでしょう。彼ら律法学者たちは、律法に勝るお方・メシアたるイエスさまを認めなければならなかったのです。


V 新しい皮袋に

 もう一つはぶどう酒と皮袋のたとえです。ぶどう酒も彼らユダヤ人の生活には欠かすことの出来ないものでした。ブドウがイスラエルの主産物だったからでしょうか。ユダヤ人の結婚式には、招待された客たちが何日も何日も浴びるほどぶどう酒を飲んで、それを新郎新婦への祝福とする習慣がありました。ぶどう酒が足りなくなるというのは、招待した客に対してたいへんに失礼なことだったようです。カナの結婚式でイエスさまが水をぶどう酒に変えた(ヨハネ2:1-11)ことも、そんなユダヤ人の習慣から生まれた出来事でした。そのぶどう酒を飲んだ世話役は花婿に、「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました」(同10)と言いました。庶民の食卓には安物の新しいぶどう酒が普通だったのです。新しいぶどう酒は、まだ発酵途中の、味もあまり良くはなく、安物というイメージがつきまといます。しかし、律法学者たちは古くてより高級なものを好んでいたのではないでしょうか。ぶどう酒は古いものほど高価で手に入りにくいのだそうです。

 そのぶどう酒を保存するのに、樽とか瓶などというもののない時代のことです。皮袋が普通に使われていました。これは羊やヤギの骨や内臓などをすっぽり取り出して皮だけを丸ごと残し、水や酒などを入れる容器にしたもので、アラビヤの遊牧民は今でもそんなものを用いているそうです。その皮袋は、新しいうちは弾力性があって丈夫ですが、古くなりますと、その弾力性がなくなってきます。新しいぶどう酒はまだ未完成で発酵中のものでしたから、桶とか壺に入れるのが普通で、やむなく皮袋を使う場合には新しいものに限定していたようです。古い皮袋ですと、発酵中のぶどう酒の強い生命力に負けて破れてしまうからでした。この皮袋とぶどう酒と、イエスさまは、これらのものを何にたとえ、どのようなことを話されようとしたのでしょうか。

 39節には「だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い』と言うのです」とあり、古いぶどう酒を律法学者サイド・恐らくそれは、律法学者たちがしがみついている律法、それも、重箱のすみを突くような解釈から生まれた彼ら流の律法・週二回もの断食日などを指していると思われます。新しいぶどう酒はイエスさまを指しているのでしょう。そうしますと、イエスさまの福音には古い皮袋を張り裂いてしまうほどの生命力が溢れている、というのがこのたとえの中心ではと思われます。古い皮袋とは彼ら律法学者たちのことであり、新しい皮袋は、きっと、イエスさまを信じる者たちのことでしょう。福音は彼らの中で発酵し、より良いものへと育っていくのです。着物のたとえでご自身のことを語られたイエスさまは、ぶどう酒のたとえで弟子たち信仰者たちのことに触れ、福音はイエスさまだけで完結するものではないことを暗示されました。それは、ルカの意識でもあったと想像します。イエスさまの十字架は、それだけで十分に私たちの救いなのですが、そこに私たち信仰者の信仰告白と生き方が重ねられていく。福音は発酵中なのです。当時の世界各地に生まれつつあったクリスチャンたちの中で、そして、現代の私たちの中で、今も……。それがイエスさまの願いでした。そのところに思いを馳せ続けていたいと願います。