ルカによる福音書

2 聞く信仰を

ルカ  1:5−23
イザヤ 51:4−8
T あなたの願いが

 ルカによる福音書1-2章は、序言(1-4)後の、イエスさま「前史」とでもいうところです。その前史をルカは、祭司ザカリヤから始めています。今朝は5-23節ですが、これは、イエスさまの先触れ・バプテスマのヨハネ誕生の由来パートTと言っていいでしょう。ルカはそれを非常に細かいところまで書き記しています。なぜ彼はこんなにもこと細かく伝えようとしたのでしょうか。「綿密に調べ」(3)ることで、この福音書をどのように書き進めていくのか、ルカには心に決めたことがあったのではないかと想像します。この「前史」の部分、特に今朝のテキストには、彼の福音書執筆の基本姿勢とでもいうべきものが隠されていると思えてなりません。探りあてていきたいと思います。

 「ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた」(5) ヘロデ大王の時代、恐らくその晩年に近いBC6年のことでしょう。組とありますが、これは当時、数千人の全祭司が24に組分けられていたことを指しています。その8番目が名門アビヤの組だそうです。それぞれの組には4〜5ほどのグループがあり、20〜30人ほどの祭司たちが一つのグループに属していたようです。神殿内のさまざまな務めを、この一週間は〇〇組というように順番で交代していたようですが、特別に重要な務めのためにはくじを引いて当番を決めていました。「香を焚く」とは、至聖所の前で毎日朝夕の二回、香を焚く大祭司のところに香炉などを運ぶ、その役目のことと思われます。当る確率はとても低いようですが、その務めにザカリヤが当りました。「彼が香をたく間、大ぜいの民はみな、外で祈っていた」(10) その務めに就いた祭司は、神殿の外に集まった人たちの前に出て行って祝福の祈りをすることになっていたようです。きっと、「香を焚く」奥深い所まで入ったことはあまりなかったのでしょう。彼の緊張ぶりが見えるようです。「主の使いが彼に現われて、香壇の右に立った」(11) 彼が「不安を覚え、恐怖に襲われた」(12)のも無理からぬことでした。

 「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい」(12)と、御使いのことばが始まります。


U 希望のメッセージを

 「その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです」(14-17) このメッセージは、ユダヤ人たちがすでに預言者イザヤやマラキの書から聞いていたものでした。「荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ』」(イザヤ40:3)「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える」(マラキ3:1)「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ」(同4:5-6) ガブリエルと彼ら預言者たちのメッセージ、それはほぼぴったりと合致するではありませんか。マラキは旧約最後の預言者でBC400年頃の人ですが、そこからイエスさまの時まで、中間時代と呼ばれる混乱の時代に入っていきます。指導者たちは肥え太り、貧しい者がいよいよ貧しく、絶望した人たちの犯罪も増加の一途を辿る中で、民衆は神さまの慰めを切望していました。それなのに、彼らと神さまとの間に立って取りなしてくれる「油注がれた者」がいないのです。ダビデ王朝が絶えて久しく、預言者も途絶えてしまいました。存続していた大祭司は、権力の座にしがみつくだけのものでしかありません。王、預言者、大祭司の職を兼ね備えた一人の者、神さまから油注がれた仲保者メシヤ、中間時代はそんなメシヤを待望する声が一気に膨らんだ時代でした。

 きっと、ザカリヤの期待と祈りは、メシヤへの期待を膨らませているユダヤ人を代表するものだったのでしょう。ガブリエルは、そんな祈りに応えようと、希望のメッセージを携えてきました。「この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです」(19)と。そして、その喜びのおとずれに先だって、「預言者エリヤが……」というマラキの預言通りに、バプテスマのヨハネが、今、人々の心を主に向かって整える、まさにイエスさまを指し示す者として遣わされようとしているのです。


V 聞く信仰を

 しかし、ガブリエルのメッセージはザカリヤにとって、余りにも唐突なものだったのでしょう。メッセージそのものには反応していません。子どもが生まれるということに驚いているだけなのです。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております」(18) ガブリエルが答えます。「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します」(19-20)  ガブリエルは、「しるし」を求めたザカリヤに、彼が声を失うと宣言しました。それが彼にとってのしるしだったのでしょう。しかし、彼には人の話が聞こえていました。聞こえても話せない。それは、自己主張をしないで他者に聞くという訓練のために、彼にとって最も必要なことだったのでしょう。何故なのか、考えてみたいと思います。

 6節に「ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めとを落ち度なく踏み行なっていた」とあります。ユダヤ人の正しさとは律法を守り行なうことでしたから、「すべての戒めと定めを落ち度なく」行なっていたザカリヤ夫婦は、まさに「正しい」人であると評価されるわけです。そして、ほとんどのユダヤ人がそうであったように、彼もらまた、律法を落ち度なく守ることで神さまとの関係が正常に保たれていくと理解していました。それが彼らの「信仰」だったのです。「あなたの願いが聞かれた」(13)と、ザカリヤの祈りが浮かび上がってきますが、恐らく、彼はイスラエルの慰め(2:25)やエルサレムの贖い(2:38)を祈っていたと思われます。それは「正しい」人のあるべき姿でした。しかし、イエスさまのたとえ話「パリサイ人と取税人の祈り」(ルカ18:9-14)に見られるように、その「正しさという信仰」は強い自己主張を伴っているようです。そう聞いていきますと、これは現代の私たちの問題でもあるのではないでしょうか。そこに、聞くという姿勢がすっぽりと抜け落ちているからです。

 ザカリヤは、そのような「正しい」ユダヤ人としての自己主張のあり方から、「神さまのことばに聞く」世界へと招かれました。今、神さまは、イエスさまの福音という新しい時代の到来を告げようとしておられるのです。彼らはその時代の先駆者として召し出されたのではないでしょうか。「信じなかった」とあるのは、単純に「年寄りの私たち夫婦に子どもが生まれるなんてあり得ない」という彼らの思いではなく、ガブリエルの中心メッセージを聞かなかったことを指しているのでしょう。彼が「声を失った」のは、聞くためであったと伝わってきます。このところに、福音の時代に要求される新しい「信仰」が、ルカの最も中心的な関心事として語られていると聞こえてくるのです。ルカの師・パウロが言っていることですが、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ロマ10:17) これが彼の福音書執筆の基本姿勢と思われます。「義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。……わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたるからだ」(イザヤ51:7-8) 聞く信仰を培いたいですね。