ルカによる福音書

19  罪を赦すお方の前に

ルカ 5:17−26
ホセア  6:4−6

T 新しい展開を

 今朝は5:17-26からです。カペナウムの奇跡物語の新しい局面が語られていると思われますが、ルカはこれをとても丁寧に書いていますので、私たちも丁寧に聞いていきましょう。

 「ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。彼らはガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから来ていた」(17) ルカは最初に、イエスさまのところに「ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから律法学者たちとパリサイ人たちが来ていた」と紹介します。彼らはユダヤ教の指導者でした。「ガリラヤとユダヤとのすべての村々」からは、恐らく何人かの代表者たち、「エルサレムから」というのは、全国の指導者たちの中でも「お偉いさんたち」だろうと思われます。そういった人たちがイエスさまのところに来たのは、恐らく、イエスさまがメシアとして本物なのか、偽物なのかを見極めようということでした。もし偽物ならば、厳重に注意し、その活動を差し止めなければならないと考えていたのかも知れません。こう書き出すのはルカだけですが、彼が取り上げたい一つのことは、イエスさまの活動にパリサイ人や律法学者たちが注目し、それが全国規模に広がって、イエスさまと対決し始めたということです。この記事の主役はもちろんイエスさまですが、もう一方の主役は彼らなのです。

 彼らが注目する中で、イエスさまはいつもと同じように話しをされ、病人たちを癒しておられました。ここはカペナウムのペテロの家、狭い家に大勢の人たちが詰めかけています。そこに男たちが中風を患っている人を担架で運んできました。しかし、家の中に入ることは出来ません。そこで彼らは屋外にある階段から屋根に上り、瓦をはがして病人を担架ごとつり降ろしたのです。何とも乱暴な男たちですが、イエスさまは彼らの信仰を見て、「友よ。あなたの罪は赦されました」と言われました。非常に唐突なことばですが、イエスさまがこう言われたのには、二つの理由が考えられます。一つには、この病人や友人たちも含め、詰めかけた人たちの中心問題への挑戦ということです。ユダヤ人には、病気は罪から来るという考えがありました。突き詰めて言いますと、自分たちが病気や貧しさなど多くの人生苦を抱えているのは、神さまから遠く離れているからではないかという意識でした。「私たちには、神さまと私たちを結ぶ王もなく預言者もいない」という意識です。それがメシア待望につながっており、同時に、罪の意識にもつながっているのです。神さまの選びの民であったのに、先祖たちも彼ら自身も神さまのことばを守ることが出来なかった。その「罪」がこんなにも神さまと自分たちの距離を遠くしてしまったと、その意識は強烈でした。この病人のことは何一つ分かりませんが、しかしこの人は、そんな彼らを、そして私たちを代表しているのでしょう。


U もう一方の主役たちが

 そしてもう一つ、そこに律法学者やパリサイ人たちがいたということです。それが、「罪の赦し」という福音の最も中心的な問題を提起させることになったのではと思います。

 彼らはシナゴグを中心に民衆に律法を教える教師でした。彼らは(旧約)聖書にある律法の解釈もしていましたが、それよりも、律法をさらに細かく規定した判例とでもいうべきものを民衆に教えることをメインにしていました。昔からラビたちが作り上げてきたその種の判例(タルムッドなど)は、長い間に膨大な量になっていましたから、ユダヤには判例を研究し教える専門家が必要だったのです。そして彼らは、民衆の中に少しでもその教えからはずれる者がいると、その「罪」を咎め、時にはその人をユダヤ人社会から除去してしまいます。つまり、彼らは律法と判例の守護者であろうとし、その目でイエスさまを見て、初めからイエスさまのあら探しをしようとしているわけです。「律法学者、パリサイ人たちは理屈を言い始めた。『神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう』」(21) 彼らは正しいことを言っているのでしょう。しかし、それは表面的なことにすぎませんでした。彼らは家の中にいて、イエスさまのすぐそばの特等席を陣取りながら、病人に場所をあけてやる心も持たないまま、律法だけでなく、神さまの権威を守る者を自認しているのです。ここにある「理屈」には、「悪意を持って否定する」という響きをもった言葉が用いられています。その悪意をイエスさまは見抜かれました。ですから、この病人への罪の赦しの宣言は、彼らの罪の告発でもあったと思われます。そしてそこに、彼らもまた「罪を赦す」お方の前に立たされているのだと、そんなルカの意識が聞こえるような気がするのです。


V 罪を赦すお方の前に

 イエスさまは言われます。「なぜ心の中でそんな理屈を言っているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために」(22-24)と、これまでのイエスさまからは考えられないほど、非常に強い調子で「権威」のことを持ち出しています。彼らの権威に「ノー」を突きつけたのではないでしょうか。彼らの権威は、自分を誇示するためのものでしかありませんでした。しかし、イエスさまのそれは、「罪を赦す権威」でした。それは十字架にかかることではっきりしていくのですが、今まさにイエスさまは、ご自分がメシア・救い主であると宣言されたのです。私たちの罪をさえ赦してくださる、十字架への道を歩み始めた宣言と聞いていいのではないでしょうか。これまでになさった「教え」も「癒し」も、イエスさまの当座のお働きでなどはなく、十字架におかかりになるそのお方からの溢れ出る恵みだったのです。

 そして、その病人に向かって言われました。「あなたに命じます。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」(24) すると彼は、「たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った」(25) ここには人々の驚嘆だけで、律法学者たちの反応は何も記されていませんが、恐らく彼らは、何も反発出来ずに、すごすごと退散したのではと思われます。しかしこの後、彼らはことあるごとにイエスさまと対決するようになります。この記事はその発端になりました。

 17節に病人たちの癒しの記事が挿入されていますが、それは「一人一人に手を置いて」(4:40参照)と考えられます。律法学者たちはその「奇跡」を、「特殊な能力を持つ人の」と黙認したのでしょう。手を置いて癒す、古代社会にはよくあることでした。この中風の人の場合も、そんな風な癒しだったなら、恐らく彼らは異議を唱えなかったと思うのです。しかし彼らは、イエスさまの「罪を赦す権威」に対して猛反発しました。しかもイエスさまは、「『あたなの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか」と、ことさらに律法学者たちを挑発しているのです。なぜイエスさまは、彼らに対してそのように好戦的になられたのでしょうか。

 彼らは、神さまの権威を守ると言いながら、実は、自分たちの利益を優先させていました。神さまを大切にはしていなかったのです。彼らは、イエスさまの「罪を赦す権威」を言葉だけのものと受け止め、その上で、「神さまを冒涜するものだ」と断罪したわけです。言葉だけでしたら、「あなたの罪を赦す」と言うのは簡単なことでしょう。「神さまを冒涜している」と彼らが言ったのも、同じことでした。彼らは、権威あるイエスさまの世界を、どうしても自分たちの枠内でしか見ることが出来なかったのです。イエスさまがこの病人に「起きて歩け」と命じられたのは、彼らのそんな立ち方を不信仰と告発したということではないでしょうか。私たちもそんなところに立つ可能性があります。気をつけたいものです。病人が癒される課程を自分たちの目で確認した彼らは、その時、神さまの前に誠実に立つチャンスを頂いたのではと想像します。十字架の赦しは彼らのためでもあったのですから。