ルカによる福音書

18 静まりて主を

ルカ 5:12−16
詩篇 46:1−11

T ルカの痛みから

 「さて、イエスがある町におられるたとき、全身らい病の人がいた」(12) 今朝は5:12-16からです。この記事は、マタイによりますと、山上の説教を終えて山から降りて来た時のものですから、カペナウムの隣町辺りでの出来事だったと思われますが、それをルカが「ある町」と言うのは、カペナウムではないという意識なのでしょう。ところが、彼はこれをカペナウムの奇跡物語に加えています。6:11まで続くカペナウムの奇跡物語の中で、この記事は、唯一他の町での出来事です。それをここに加えた理由も含めて、ルカのメッセージを聞いていきたいと思います。

 いくつかのことを聞いていきたいのですが、まず第一のことです。マタイもマルコも「ひとりのらい病人がみもとに来て……」となっているのですが、ルカだけは「全身」という言葉を加えます。それは、この人が「全身」をその病いに冒されていたという彼の診たてなのでしょう。この人の病気は非常に重度のものであるとルカは判断したのです。いかにも医者の目を感じさせますが、彼は、この人を単純に病気であると強調しているようです。それは、ユダヤ人たちの、この病気を「病気」というより、「汚れている」と排除する意識のためではなかったかと思われます。この病気については、祭司が認定していました。そして、その「汚れ」の中には、罪を犯した者の汚れが意識されており、らい病は罪の代名詞だったのです。恐らくルカは、ユダヤ人社会の「汚れている」という意識に批判的なのでしょう。ユダヤ人たちが「汚れている」と忌避するものは、この病気ばかりではありません。ある種の(反芻せず、蹄も分かれていない動物など)食べ物や、また、外国人(異邦人)もそうでした。ルカは、彼らが嫌うその異邦人だったのです。きっとルカは、ユダヤ人から何度も「汚れた者」という目で見られたことがあったのでしょう。その意味で、「らい病人」はルカ自身のことでもあったと想像します。ですからルカは、そういったユダヤ人意識に対して「ノー」と言ったのだと思われてなりません。この福音書は異邦人教会の人たちに読んで欲しいと願って書かれたものでした。その人たちも、またルカ自身も、イエスさまの十字架に罪を赦された者であると聞いたと、思わず口がとがったのではないかと想像してしまいました。「(そのらい病が)消えた」(13)という表現も、ルカのそのような繊細な意識を繰り返し強調しているのでしょう。


U 主への期待が

 第二のことです。「(彼は)イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。『主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます』」(12) 「イエスを見ると」とは、通りかかったイエスさまを偶然見かけたという意味ではありません。彼は、イエスさまが人々の病気を直していると聞いて、山から降りて来られるのを待っていたのでしょう。らい病に冒された人は人里離れた荒野などに隔離されていましたから、町に出て来るのは非常に勇気のいることでした。「私は汚れている。私は汚れている」と叫びながらでなければ入って来ることは出来ないのです。そして、そう叫びながらでも、心ない人たちから石をぶつけられることも珍しくはありません。そんな彼が勇気を振り絞ってイエスさまにお目にかかりたいと願いました。旧約聖書にらい病の癒しの記事がありますので(U列王5:1-14)、もしかしたら自分の病いもと期待したのでしょうか。「ひれ伏した」とは、恐らく嘆願の姿勢なのでしょう。彼が「お心一つで、私はきよくしていただけます」とへりくだる様子から、おずおずと人の好意だけを頼りに生きて来たその痛みが伝わってくるようです。ことさらに彼は今、偉大なる預言者かもしれないお方、もしかしたら、来るべきメシアかと思われるお方の前にいるのです。自分がきよくなることはこのお方のお心ひとつにかかっていると、一縷の望みをイエスさまに繋いだ彼の、ひれ伏したその心根が痛々しいまでに伝わってくるではありませんか。

 そして、彼は直りたいという強烈な意志をイエスさまに伝えました。この病気に冒されて以来、誰かの好意で運ばれてくるわずかばかりの食べ物で生きてきた者が、まるで意志のない死んだも同様だった彼が、自分の願いをイエスさまに伝えたのです。イエスさまと一緒に山から降りて来た大勢の人たちも成り行き如何と見ています。その中には、彼のところに食べ物を運んだ人もいたかも知れません。そのような人たちの目が集中する中で、彼は「お心一つで、私はきよくしていただけます」と言いました。これはまさに彼の信仰告白に他なりません。そして、その「信仰」がイエスさまに届きました。


V 静まりて主を

 イエスさまは手を伸ばして彼にさわりました。「わたしの心だ。きよくなれ」(13) ユダヤ人の誰もが伝染を恐れ、決して近寄ろうとはしないその病人に、そんなことにはまるで頓着せずにイエスさまは、衆人の注目する中で、手を伸ばして彼にさわったのです。らい病(ハンセン氏病)という病気が100%消滅したと言われる現代日本においてすら、(元)患者に対する偏見が未だなくなってはいません。病気だった人と同席することなど、今でも考えられていません。まして、無知と迷信に囲まれた古代世界でのことです。イエスさまのなさったことは驚くべきことでした。触わらないで直した例もあるのです。別のらい病人を癒した記事(17:11-19)では、全く触れてはいません。しかし、この人の切ないまでの必死の願いに、イエスさまのあわれみの心が溢れたのではと想像します。非常に多くの群衆に囲まれたイエスさまを目の当たりにして、彼は(群がっている群衆たちも)気がつきませんでしたが、イエスさまもユダヤ人社会の正常な一員として迎えられてはいなかったのです。「触った」という中に、そんなイエスさまの心が溢れ出たと感じるのです。

 手を伸ばして彼にさわられたイエスさまは、その溢れる思いを込めて言われました。「わたしの心だ。きよくなれ」 イエスさまは、彼のおののきに触れ合うかのように、彼の願いと同じことばを重ねます。「よろしい」(新共同訳)や「もちろんだ」(岩波訳)ではなく、新改訳の「わたしの心だ」という訳が最高ですね。「きよくなれ」、これはもう、ルカが反発するユダヤ人の言い方ではなく、病いへの命令であり、癒しの宣言でもありました。「すると、すぐに、そのらい病が消えた」(13) これは弟子たちの証言ですが、きっと、病気の痕跡がみるみるなくなって、そんな癒しの進行が注視しいている人たちにも分かったのでしょう。まさに神さまの不思議でしたが、きっとそれは、ユダヤ人社会などへではなく、神さまの民としての回復、み国への復帰というメッセージが込められていると想像します。「きよめる」には聖別するという意味もあるのですから。イエスさまは彼を聖別しました。それがらい病人に触れる行為になったのでしょうか。そこにはイエスさまの十字架が見え隠れしているようです。彼の病いをその身に負われたと。カペナウムの奇跡物語の中心は十字架だと、それがルカの意識ではなかったかと感じられてなりません。

 そしてイエスさまは、癒された人に向かって言われます。「だれにも話してはいけない。ただ祭司のところに行って、自分を見せなさい。そして人々へのあかしのため、モーセが命じたように、きよめの供え物をしなさい」(14) いかにもユダヤ人流のやり方ですが、昔、そんなことがあったというだけですっかり忘れられている神さまの不思議は、今もあなたがたの中にあるのだと、神さまへの信頼回復という挑戦状を、ユダヤ人社会が突きつけられたと言えなくもありません。もっとも彼らは、それに応えるような繊細な心を持ち合わせてはいませんでした。結局大騒ぎになっていくのですが、現代の私たちにしても、きっと同じなのでしょうね。最後にルカは「しかし、イエスご自身はよく荒野に退いて祈っておられた」と加えます。イエスさまを信じる者たちの、それが最もふさわしい信仰告白の姿だと、ルカの心の琴線が、そんなイエスさまの「祈り」に共振していると感じるのです。