ルカによる福音書

17 イエスさまの弟子に

ルカ 5:1−11
イザヤ 6:1−8

T 神さまのことばを

 4:31から続いているカペナウムでの奇跡物語の、今朝は5:1-11からです。この「弟子たちの招き」として知られる記事には、マタイとマルコに並行の記事があり、ルカの記事とは違うとする人も、また、同じとする人もいるのですが、マタイやマルコが簡単に記したものを、ルカが補足しているのではと思われます。どちらもペテロをシモンと記しており、三人とも古い同一の資料を用いているようです。マタイやマルコがなぜ簡単な記事なのかは不明ですが、ルカは自分と同じ後代の異邦人クリスチャンのために、詳しく紹介したほうがいいと考えたのではと想像します。ともあれ、ルカはこの記事をカペナウムの奇跡物語に組み入れていますが、船が沈みそうになるほどの大漁が奇跡であると単純に言うことは出来ません。その辺りのルカの意識も含めて見ていきましょう。

 「イエスがゲネサレ湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た」(1・新共同訳)と始まります。新改訳は原典に近いのですが、少々分かりにくいようです。カペナウム近くのガリラヤ湖でのことです。すでにイエスさまの評判が近隣に知れ渡っていたのでしょう。「押し寄せた」ということばに、ものすごい数の人たちがイエスさまをひと目見たいと押し合いへし合いしている光景を想像しますが、注目したいのは、「神さまのことばを聞こうと」殺到して来たということです。この時代のユダヤ人たちのことを考えてみなければなりません。確かに、病気を直して欲しいとか、貧しい自分たちの生活を何とかして欲しいといった実利的なところでメシアに近づいて来る人たちもいたのですが、多くのユダヤ人にとって、メシアであろうと噂されるイエスさまに期待したことは、神さまと自分たちの間に立って、自分たちが神さまに近づいていけるよう執りなして欲しいということでした。それが「神さまのことばを聞きたい」という願いに凝縮されたわけです。王も預言者もいなくなって、彼らは始めて神さまから遠く離れている自分たちに気がついたということかも知れません。しかし、かつて預言者たちが神さまのことばを語った時に、彼らの先祖たちが耳をふさいで、「もっと耳あたりの良いことばを聞きたい」と願ったことを忘れてしまったのでしょうか。やがて、彼らはイエスさまに向かってこぶしを振り上げるようになります。そのことを、私たちも同じ道を辿る可能性があると覚えておかなければなりません。


U 深みに漕ぎ出して魚を

 しかし、そのことはさておき、ルカは神さまのことばに飢えている人たちを背景に、イエスさまの弟子たちが誕生していく様子を描きます。ガリラヤ湖の岸辺に立っておられるイエスさまのすぐそばに、漁から戻ったばかりらしく、網を洗っている漁師たちがいました。ペテロとその兄弟アンデレです。ガリラヤ湖では夜漁がほとんどだったようですから、この出来事は早朝のことだったのでしょう。静かに一人湖畔にたたずんでおられる(祈りのため?)イエスさまめがけて、群衆が殺到していく、いくらイエスさまの評判が高いといっても、この光景は少し異常と感じます。少し後のことですが、民衆が「飼う者のない羊のような」(マタイ9:36)と形容されています。貧しく弱い民衆にとって、そういう時代だったのかも知れません。そして、格差が広がっていると感じる現代の状況が、これに重なってくるのです。ともあれ、イエスさまは彼らに舟を出して欲しいと頼みます。舟の上から岸辺の群衆に話をしようというわけです。「山上の説教」と好一対の「湖畔説教」なのでしょうが、残念ながら、どんなお話をされたのか記録がありません。まだ、その話を記録する人(弟子)がいなかったということなのでしょう。イエスさまの活動は始まったばかりです。

 ペテロ(彼の言葉の中には「私たち」とあるから、兄弟のアンデレも含まれている)は、群衆がイエスさまの周りに押し寄せて来るさ中に、その熱狂ぶりには目もくれず、黙々と自分たちの仕事をしていました。イエスさまに全く関心がなかったわけではないと思うのですが、とにかく、出漁の後始末をしなければなりません。網を洗う、破れたところを繕う、次回に備えてすぐに繰り出せるよう網を畳んでおくなど、出漁の後始末は結構たいへんな仕事量です。そんな仕事を黙々とこなしていた彼ら。一晩中働き、小魚一匹獲れなかった彼らに、舟を出して少し陸から離れてくれるよう頼んだところ、嫌な顔ひとつせずに舟を出してくれました。イエスさまは、そんな彼らの忍耐強い様子を、観察していたのかも知れません。話を終えるとイエスさまは、ペテロに言われました。「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」(4)


V イエスさまの弟子に

 恐らく彼らも、すぐそばでお話を聞いていて、その話に引き込まれていたのでしょう。ペテロは「先生」と、イエスさまに呼びかけました。これは「ラビ」(ルカは何故かこの言い方をしていない)に当たります。ラビは、ユダヤ人が尊敬を込めて特定の律法学者につけた敬称ですから、彼らがイエスさまに一目も二目も置いたということなのでしょう。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」(5) 漁のプロが、素人の常識はずれな命令を受け入れたのです。もう日は高く、網は洗ったばかりでした。しかし、それが「先生」となったお方の命令でしたから、疲れきってはいましたが、従おうと決めたのでしょう。そこで、もう一度網をおろしますと、たくさんの魚がとれて網が破れそうになったのです。彼らは、近くにいたヤコブとヨハネの船に助けを求めました。そして、網を引き上げたところ、二艘とも沈みそうになるほどたくさんの魚が獲れたのです。ベテラン漁師として何度も経験した大漁とは比べものにならないほどの魚が、網に飛び込んできました。夜通し働いて獲れなかった魚が、こんなにも!

 しかしルカは、その奇跡を詳細に記しながら、まるでそれが目的ではないと言わんばかりに、筆を置こうとはしません。「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから』と言った」(8)と続けます。ルカが本当に記したかったことは、イエスさまの超自然的な力などではなく、このペテロの内面に起こった不思議ではなかったかと思われます。予想もしなかった大漁という不思議に出会って、意外にもペテロは自分の罪を告白しました。ユダヤ人にとって「罪」とは律法違反のことであり、安息日の戒めを犯すとか汚れたものを食べるといった非常に具体的なことでした。ところが、この時のペテロには、そのような具体的な律法違反は何も見当たりません。ペテロの告白は、自分と神さまの余りにも大きな違いに愕然としたということではないかと想像するのです。人は神さまの前に立たされた時、その輝きの前に決して出ることが出来ない自分を感じてしまうのでしょうか。「私から離れてください。私はあまりにもちっぽけな罪人にすぎません」と、ペテロはイエスさまにその輝きを見たという、ルカの証言が聞こえてきます。「ちっぽけな罪人」、これは何も誇張した言い方ではありません。それは、私たちが自分の内側を覗いてみるとはっきりするでしょう。私たちは断じて聖なる神さまの前に立つことの出来る者ではないのです。その罪人が神さまの輝きと出会ったと、それこそルカが描きたかった本当の奇跡ではなかったかと思うのです。ひれ伏して顔を上げることさえ出来ないペテロに、イエスさまが言われました。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです」(10)

 そして、ルカはこう締めくくります。「彼らは舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った」(11) イエスさまは、お話を聞きたいと押し寄せた群衆の中からではなく、寡黙な、自分を罪人とする貧しい漁師に目を留め、弟子に招かれたのです。今、イエスさまと、イエスさまを主とする弟子たちとの新しい歩みが始まりました。その交わりの中に私たちも加わりたいではありませんか。