ルカによる福音書

16 教会への招きを

ルカ 4:38−44
イザヤ   49:6

T 人々の輪の中心に

 ルカ4章、カペナウムの記事が続きます。いくつもの記事が並んでいますが、今朝はその三つを取り上げます。最初はシモン(ペテロ)のしゅうとめのいやしの記事です。「イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家にはいられた。すると、シモンのしゅうとめが、ひどい熱で苦しんでいた。人々は彼女のためにイエスにお願いした。イエスがその枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひき、彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなした」(38-39) この記事はペテロがイエスさまの弟子になる記事(5:1-11)に関係し、その後に起こったことと思われるのですが、ルカはこれを独立した記事としてカペナウム関連の奇跡物語に組み入れ、イエスさまと彼女の関係や、何のためにそこに行ったのかについては全く触れていません。彼の執筆目的を、少々推察も交えながら見ていきましょう。

 マタイやマルコの共通記事と読み比べてみますと、ここにはルカだけの記述があって、この記事を取り上げたルカの目的が浮かび上がってくるようです。「会堂を出て」と「人々は彼女のためにイエスにお願いした」という二つのことです。まず「会堂を出て」というところからですが、ルカは、その日が安息日だったと強調しているようです。安息日に病気を癒すことは、パリサイ人たちがイエスさまを非難する中心点ですが、ルカは(マタイやマルコも)そのことには全く触れようとしていません。まだ、イエスさまのことがそんなに知られていない時期だったからでしょうか。ところが40節を見ますと、「いろいろな病気で弱っている者をかかえた人たちがみな、その病人をみもとに連れて来た」とあり、非常にたくさんの人たちが、恐らくペテロの家にいるイエスさまのところにやって来たという印象を受けます。イエスさまのことが多くの人たちに知られるようになる、そのきっかけの一つが「ペテロのしゅうとめのいやし」ではなかったかと思うのです。そしてもう一つのことは、高熱に苦しむ彼女のために、「人々は彼女のためにイエスにお願いした」と付け加えていることです。「人々」が誰なのかは分かりません。が、恐らく家族ではありません。きっと、その家が人々の集まる場所になっていたのではと、イエスさまの癒しに、人々の願いが絡んでいるのです。その人たちが、イエスさまの信じられないほどの力を目撃し、外に出て行って彼女の不思議な出来事を言い広めたということではないでしょうか。きっと、イエスさまが彼女の家にやって来た目的は他にある(たとえば、マタイはペテロが弟子となったための挨拶?)と思われます。しかしルカは、イエスさまが、人々の前に出て来たそのデビューの最初から、人々の輪の中心になっていることに注目して欲しいと願っているようです。


U 教会の原型

 二番目のことです。「日が暮れると、いろいろな病気で弱っている者をかかえた人たちがみな、その病人をみもとに連れて来た。イエスは、ひとりひとりに手を置いていやされた」(40) そしてルカは、マタイやマルコの記事では一緒にされているもう一つの記事を区別して取り上げます。「また、悪霊どもも、『あなたこそ神の子です』と大声で叫びながら、多くの人から出て行った。イエスは悪霊どもをしかって、ものを言うのをお許しにならなかった。彼らはイエスがキリストであることを知っていたからである」(41) それは、カペナウムの彼女の家での出来事でしょう。ガリラヤ地方における活動の根拠地、その一つがその家になったことを報告しているようです。「ひとりひとりに手を置いて」という情景を想像してみてください。小さな部屋で、一度に入れる人数はそんなに多くはありません。ですから、ひとりひとりに手を置いてねんごろにことばをかけることが出来たと思うのですが、ペテロのしゅうとめのいやしが「ことば」だけによるものであったことと比べますと、この時、イエスさまがその家の主人のように人々に接している様子が浮かんでくるではありませんか。きっと、イエスさまのことを聞いて押し掛けた人々が、我先にと家の中に入り込んで来たのでしょうが、その人々を、イエスさまは、まるで招いた人たちでもあるかのようにもてなしているのです。ペテロのしゅうとめが彼らをもてなしていることは疑いありませんが、ルカは、もてなす側の主体はイエスさまであったと言っているのです。それは、イエスさまを中心とする交わり=教会の原型なのだと、ルカの意識の中にそのような思いがあったのではないかと感じられます。もちろん、もてなされている人たちも、次はもてなす側になって欲しいという願いも込めて。

 そしてルカは、イエスさまが、「あなたはキリストです」という告白を、悪霊にではなく、集まって来た人たちに期待したのであろうと考えているようです。教会は、構成する人たちのその信仰告白を土台に打ち立てられていくことが大切であると、教会人らしいルカの意識ではありませんか。


V 教会への招きを

 三番目のことです。「朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた」(42)とあるところからです。なぜ家を出て行かれたのでしょうか。その理由の一つですが、朝とは恐らく早朝のことです。朝早く、イエスさまはしばしば山に登り、海辺に行って独り静かに祈っています。この時も、きっと祈りのために家を出て行かれたと思うのです。カペナウムに活動の根拠地を確保されたばかりで、それは教会の原点になるものですから、そこでの働きを一番にする。それは大切なことでしょう。しかし、その働きから離れて「祈り」に行ったイエスさまに、何かはっとさせられました。私たちもまた、神さまと向き合うことなしに働きは出来ません。神さまこそ私たち存在の原点なのだと確認させられた思いがします。そして、その理由にもう一つのことが考えられます。「寂しいところ」を、新共同訳は「人里離れた所」、岩波訳は「荒涼としたところ」と訳しています。そこは人を寄せ付けないところでした。イエスさまは、もしかしたら、孤独になる時を必要としていたのかも知れません。民衆は離れ、弟子たちも逃げ出し、父なる神さまからも見捨てられて、たったお一人で十字架にかからなければならなかったお方、ルカは、そのようなお方に思いを馳せながら、この福音書を書き進めているようです。十字架のイエスさまがルカの中心なのです。

 十字架に贖われた人たちの群れとしての教会。カペナウムの奇跡物語を、ルカはその教会ということを軸に書き進めていきます。「群衆は、イエスを捜し回って、みもとに来ると、イエスが自分たちから離れて行かないように引き止めておこうとした。しかしイエスは彼らにこう言われた。『ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしはそのために遣わされたのですから』そしてユダヤの諸会堂で、福音を告げ知らせておられた」(42-44) カペナウムの人たちは、イエスさまを自分たちのところに引き止めておこうとするのですが、それは、病人をいやし、悪霊を追い出すという不思議な力を失いたくないというだけであって、残念ながら、彼らはエゴーむき出しの人間性「罪」を浮き彫りにして、まだ、十字架を中心としたイエスさまご自身にほかならない「神の国の福音」とはほど遠い存在でしかないようです。それは現代の私たちの姿にも重なってくるのですが、そんな私たちが神さまのみ国(教会)に招かれているのです。イエスさまは、そのような私たちの罪の赦しと神さまの国への招きのために、十字架におかかりになりました。教会とは、まさにイエスさまに招かれた罪人たちの群れなのだと覚えていきいたいですね。そのことを意識していますと、現代教会が抱える多くの問題も消えてしまうのではないでしょうか。そして、「ユダヤの諸会堂で福音を告げ知らせておられた」というところには、「地の果てまで」(イザヤ49:6、使徒1:8)という私たちに託された福音の広がりが見られます。きっと、パウロと一緒に世界各地を巡り歩いているルカの意識が強く出ているのでしょう。イエスさまから信仰者へと、そのつながりの時代を生きてきたルカの、これは使徒行伝とともに教会への招きであると聞いていきたいのです。