ルカによる福音書

15 暗闇に輝く光を

ルカ 4:31−37
イザヤ  9:1−7

T カペナウムの町で

 前回、イエスさまがご自分の町ナザレに行き、そこで福音を語られたのに、ナザレの人々は「しがない大工ヨセフの子」と歯牙にもかけず、イエスさまをはねつけた様子をみました。彼らはイエスさまを受け入れなかったばかりか、町はずれに引いて行き、そこから突き落とそうとまでしたのです。ナザレは山の上にある盆地の町で、町はずれは小さな丘になっており、そこには深い崖が顔をのぞかせていました。彼らは、ご自分をメシアとするイエスさまを、神さまを冒涜する者であると裁いたのです。「自らを神とする者」に下される判決は死刑、その死刑執行のために、イエスさまをがけっぷちに連れて行ったのでしょう。彼らはその正義のために、安息日の礼拝まで中止してしまいました。神さまへの礼拝よりも、自分たちの正義を主張し通す頑固さが伝わってきますが、それが今も、パレスチナ人を隔てる壁など、イスラエルで息づいているような気がします。しかし、彼らの手をすり抜けられたイエスさまは、その後二度とナザレには戻りませんでした。

 「それからイエスは、ガリラヤの町カペナウムに下られた。そして、安息日ごとに、人々を教えられた。人々は、その教えに驚いた。そのことばに権威があったからである」(31-32)とルカは、新しい記事をまた独立した挿入句で始めますが、今朝の箇所はカペナウムでの出来事です。ナザレでイエスさまが話された中に、「カペナウムで行われたと聞いていることを……」(4:23)とありますから、もしかしたら、この記事はナザレに行く前のことだったのかも知れません。ともかくも、ナザレとカペナウム、ルカはこの二つの町を並べることで、イエスさまを拒否する人と受け入れる人という、二つの姿勢を描き出そうとしているようです。カペナウムは、ガリラヤ湖の北端に近いところに位置する交通の要所で、住む人も多く、荘厳なユダヤ人会堂(シナゴグ)もあって、領主ヘロデ・アンティパスの宮殿があるテベリアに次ぐ、この地方第二位の都市でした。そしてこの町は、やがてガリラヤ地方におけるイエスさま活動の根拠地になるのですが、それを意識しながらでしょうか。ルカはカペナウムの町での出来事を記し始めます。その最初が4:33-37の出来事でした。


U 悪霊以下の?

 「また、会堂に、汚れた悪霊につかれた人がいて、大声でわめいた。『ああ、ナザレ人のイエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です』」(33-34) カペナウムの会堂で、恐らく、これがイエスさまの行われた最初のしるしではなかったかと思われますが、その発端は、悪霊につかれた人が会堂に入って来たイエスさまを見て鋭く反応したところから始まります。悪霊の存在を、科学的な?現代人は非合理な神話の世界であろうと一笑に付してしまいますが、聖書は彼らをサタンに属する実在者としています。そして、今も私たちの周りをうろうろしていると警告しているのです。ところで、「悪霊につかれた」と、誰が決定するのでしょうか。当時の「世間一般」だったとも考えられますが、むしろ、その筋の権威者が「彼は悪霊につかれている」と宣言して、はじめて人々が「そうなのか」と認知したのではないかと思われます。恐らく、律法学者やパリサイ人など会堂の指導者たちがその権威者でした。後に、イエスさまがパリサイ人たちから「悪霊どものかしらベルゼベルの力で悪霊どもを追い出している」(11:15)と言われますが、イエスさまにそのようなレッテルを貼ることで、イスラエル社会から抹殺しようとしたわけです。現代でもそのような悪い意味でのレッテル貼りが行われていますが、私たちがそれに組みすることがあってはなりませんね。ところで、そのように認知された人は会堂への出入りを差し止められ、一般市民との接触が禁じられていたと思われるのですが、不思議なことにこのカペナウムでは、「悪霊につかれた人」が安息日礼拝の行われている会堂にいました。きっと、カペナウムは悪霊にではなく、「つかれた人」に対して優しかったのでしょう。

 その悪霊が、的確にイエスさまを認めました。「神の聖者」という表現は、〈神さまから遣わされた神的なお方〉つまりメシアを意味しています。人々がイエスさまを、ナザレの人たちのように全面的に拒否するか、或いは「もしかしたらメシアではないか」とまだ半信半疑だった時に、彼らは「あなたはメシアです」と告白し、彼らを滅ぼし尽くすその力におびえているのです。こと神さまに関する限り、私たちは悪霊以下の鈍感さしか持ち合わせていないという皮肉さが指摘されているようです。


V 暗闇に輝く光を

 イエスさまは彼を叱って言われました。「黙れ。その人から出て行け」「するとその悪霊は人々の真中で、その人を投げ倒して出て行ったが、その人は別に何の害も受けなかった」(35) 悪霊という無形の存在が、どうして「その人を投げ倒す」ことが出来たのか不思議ですが、墓場にいた悪霊につかれた人は繋がれていた鎖を断ち切る力を持っていましたから(ルカ8:29)、きっと彼らは、私たちの目に見えないというだけで、私たちの世界を活躍の舞台にしているのでしょう。ところで、ここは新改訳のように訳すものと、新共同訳のように「悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った」とする訳とがあります。原文は新共同訳に近く、新改訳は意訳と言っていいようですが、新共同訳のニュアンスは、悪霊がその男を投げ倒しはしたが、それは単なるデモンストレーションであって、傷つけることをわざと避けたように聞こえます。恐らくイエスさまの力を恐れてのことでした。しかし、悪霊が徹底的に神さまに逆らうサタンの手下であることを考えますと、新改訳の訳し方が当を得ているような気がします。そうしますと、恐らく、彼はイエスさまの目の前で「その人を投げ倒す」ことで強烈な力をアッピールし、イエスさまの力を貶めようとしたのではないでしょうか。もしかしたら、その人を死に至らしめるほどのダメージを与えようとしたのかも知れません。「あなたは神の聖者です」と、ことばの上では丁寧に聞こえますが、彼の本性の中には、イエスさまへの悪意と敵対意識に満ちているのが見え隠れしているではありませんか。

 しかし、ルカはその悪意を見抜き、「その人は別に何の害も受けなかった」と書き加えます。それは明らかにイエスさまの守りがあってのことでした。イエスさまは何も言われず、何かをされたふうもありませんが、その沈黙の中に、悪霊の力との熾烈な戦いがあったと伝わってくるようです。きっとルカは、悪霊につかれた男に自分を重ね合わせ、自分をめぐる悪霊とイエスさまとの激しい戦いが今なお続いていると感じながらこの記事を書き進めていると、そんな気がするのです。そして、悪霊につかれた男はまた、現代の私たちでもあると思うのです。

 ここには「人々の真中」とありますから、会堂にいた人々は総立ちでイエスさまとその男とを取り囲んでいたのでしょう。彼らは「今のおことばはどうだ。権威と力とでお命じになったので、汚れた霊でも出て行ったのだ」(36)と驚きました。イエスさまと悪霊との沈黙の戦いには気がつきません。彼らが目撃したのはイエスさまの権威と力でした。それは表面的なことかも知れませんが、それほどのインパクトを与える出来事が起こったのです。「こうしてイエスのうわさは、回りの地方の至る所に広まった」(37)という、ガリラヤ地方でのイエスさまのお働きが実を結んでいくきっかけになりました。イエスさまにその計算があったとは思われませんが、だからこそ、ガリラヤ地方の人たちはイエスさまに深く信頼することを覚えたのでしょう。まさに、「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の蔭の地に住んでいた者たちの上に、光が照った」(イザヤ9:2)と預言者が洞察した出来事が始まったのです。悪霊は暗闇の主役でした。その暗闇の中で、希望を手探りしている私たちではないでしょうか。その暗闇に差し込んで来たイエスさまの輝く光に気がついていきたいですね。