ルカによる福音書

13 主への信頼を

ルカ 4:1−13
詩篇 91:1−16

T 荒野の誘惑に

 前回、バプテスマを受けられたイエスさまが、「その時から教えを始められた」(3:23)と、「神さまの全権を担い、その全ご人格を傾けて走るべく、救い主としてのスタートラインに着かれた」と見てきました。しかし、走り出すまでに、まだハードルが残っています。今朝のテキスト、「荒野での誘惑」の出来事がそれではないかと思われます。今朝は、そのハードルが何を意味しているのか、ルカが何を見つめているのかも併せ、探ってみたいと思います。

 「聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、40日間、悪魔の試みに会われた。その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた」(1-2)と始まります。そこは、死海への河口に近い荒涼としたヨルダン低地一帯を指します。「ヨルダンから帰られた」とは、バプテスマを終えられた、くらいの意味でしょう。受洗の場所がベタニヤ(ヨハネ1:28・ヨルダン低地)ですので、ほんの少し移動するだけで、川辺から荒野に舞台が変わります。「聖霊に満ちた」「御霊に導かれて」と、ここにはイエスさまが聖霊と一体になっている様子が記されていますが、悪魔の試みに会われた40日間の断食の期間を、聖霊ととも乗り越えたことを強調しているのでしょう。40日間の断食というと、イスラム世界の「ラマダン」が知られていますが、それは夜明けから日没までで、日が暮れると飲めや歌えのどんちゃん騒ぎになります。それとは違って、イエスさまの40日間は正真正銘、昼夜ぶっ通しの断食でした。とても人間のなし得る業ではありません。そこに悪魔が挑発してきます。私たちにはとうてい太刀打ち出来るものではありませんが、イエスさまは聖霊とともにその戦いに打ち勝つべく、全力を傾けて悪魔の前に立たれました。


U 十字架に敵対して

 悪魔の誘惑は3つあります。まずその第一です。「悪魔はイエスに言った。『あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい』イエスは答えられた。『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある」(3-4) 「あなたが神の子なら」とありますが、悪魔はイエスさまを「神の子」と言いながら、その実、人の子と侮りながら誘惑していると見ていいようです。ところで、この並行記事がマタイにありますが、そこにはイエスさまの答えが、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4:4)となっています。もともと、このことばは旧約聖書の申命記8:3にあるもので、マタイはそれをそのまま記しています。ところがルカは、後半の部分を削除してしまいました。恐らく、ルカの記事がイエスさまのことばそのものではなかったかと思われます。ルカとマタイの相違はそれだけではなく、悪魔の試みも、マタイは40日間の断食が終わったところから始まったように記していますが、ルカでは40日間がそのまま試みの期間であったようになっています。そして、それも恐らく、ルカの記述通りでした。40日間の断食は、何も40日経たなくても、途中で空腹になるでしょう。私たちはたった一食抜いてもおなかが空いてしまいますからね。「この石に、パンになれと言いつけなさい」という誘惑は、断食の全期間を通して襲いかかって来たのではないでしょうか。そして、それが出来るお方だから、誘惑になったのでしょう。しかし、イエスさまが、その誘惑に冷静に受け答え出来る状態だったとは考えにくいのです。死とぎりぎり背中合わせになった状態で、「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある」と反発するのが精一杯だったと想像するのです。それでも、その誘惑が、私たち人間が生きるための最も基本的部分の誘惑であると的確に判断されました。もし、石に命じてパンを出していたなら、イエスさまの救い主としてのお働きは、私たちの罪を贖うことなしに、その時点で終了していました。悪魔の誘惑は、イエスさまを十字架から回避させる意図をもっていたということです。そして、イエスさまもそのことを十分承知し、渾身の力を振り絞ってこれを退け、私たちの救い主として立ち続けてくださったのです。


V 主への信頼を

 第二の誘惑です。「悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。『この国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう』」(5-7) イエスさまをどこに連れて行き、瞬時にどのように世界中を駆けめぐったのか分かりませんが、それは実際に起こった出来事でした。決して昔のおとぎ話などではありません。このところ、毎日そのようなニュースが流れていますが、欲望のためにはいとも簡単に殺人を犯してしまう私たちです。これは、「おまえはどうなのか」と現代の私たちにまで鋭く問いかけてくる誘惑なのです。こう見てきますと、世界中の権力と栄華を手に、悪魔がこれほどの力を持って現代人の心さえ支配してしまう実在者であるとはっきりしてきます。誰がその誘惑に打ち勝てるでしょうか。悪魔は、イエスさまに私たちを重ね合わせながら、挑みかかってきました。人の子としてのイエスさまにです。世界中の権力と栄華を目の前にして、それは魅力と感じられたのではないかと想像します。だからこそ、誘惑になったのです。ところが、そこには「私を拝むなら」という悪魔の巧みな条件がありました。私たちなら、即座に妥協してしまうところでしょう。しかしイエスさまは、その条件に敏感に反応し、答えました。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい』と書いてある」(8・申命記6:13) 国々の権力とか栄華には一言も触れていません。きっと、それは悪魔の舞台であって、その舞台に登る必要はないと判断されたのでしょう。ことの本質は、悪魔の前にひざまづくか否かということなのです。私たちのイエスさまを信じる信仰は、その一点で妥協してはならないと、はっきりさせておかなくてはなりません。イエスさまはその誘惑に打ち勝たれました。

 三番目は、「悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、こう言った。『あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。「神は、御使いに命じてあなたを守らせる」とも、「あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえる」とも書いてあるからです』」(9-11)というものです。「と書いてある」と、悪魔も聖書のことば(詩篇91:11-12)を引用しながら挑戦してきました。ところでルカでは、マタイの並行記事と第二、第三の順序が逆になっています。どちらが本来のものかは分かりませんが、ルカの順序からは明瞭な意図が聞こえてきます。それは、二つの誘惑がイエスさまを人の子として挑みかかってきたのに対し、第三のそれは、悪魔がイエスさまを「神さまの子」であると認めたということです。それは、先の誘惑が失敗したことを暗に認めたものでしょう。それだけに悪魔は、もう後がないと、並々ならぬ覚悟を決めて最強の誘惑を持ち出したと言えるようです。聖書のことばを引用しながら挑みかかってきたのは、そういった悪魔の決意があってのことではないかと感じられます。神殿は、人々がメシアの出現を待ち望んでいたところでした。彼はその土俵に登ってきたのです。イエスさまには、メシアとして飛び降りるという選択肢もあったのではと思います。しかし、イエスさまは答えます。「『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている」(12・申命記6:16)と。神さまへの絶対的信頼がイエスさまの答えでした。そしてその信頼は、十字架への道へと続いていきます。もしかすると、悪魔の欲しかったのはその信頼ではなかったかと想像します。しかし彼は、信頼の壊れたところにしか住むことが出来ないのです。

 誘惑の手を尽くし、敗北した悪魔は、「しばらくの間、イエスから離れ」(13)ていきました。彼は今、私たち現代人の中にひそみ、あれこれと誘惑の手を画策しているのかも知れません。