ルカによる福音書

12 神さまのご計画が

ルカ 3:23−38
創世記 5:1−3

T 手がかりを求めて

 昔、どこかの新聞記者が、「世界中で最も面白くない読み物は、新聞の株式欄と競馬の予想とマタイ福音書の最初」と書いていたことを思い出します。マタイ福音書の最初はイエスさまの系図です。しかし、マタイの系図はルカのものに比べると変化に富んでいて、はるかに読みやすいと思いますが、ルカの系図は単純な名前の羅列であって、これを記したルカの意図がなかなか見えてきません。しかし、困惑していても埒があきませんので、ともかく読み進んでいくことにします。ごちゃごちゃしていると思われるかもしれませんが、ご勘弁ください。

 さて、ルカが挙げた名前は全部で76人、マタイは40人で、アブラハム以前は記載されていませんので、単純な比較は出来ませんが、アブラハムからダビデまでで13人、ダビデ以降はヨシヤ、サラテル、ゾロバベル、マタンの4人(合計17人)と共通する人物は少なく、しかも、ゾロバベル以降、マタイはたった10人に対して、ルカには18人もの名前が出てきます。その相違点があまりにも際だつところから、マタイの系図はヨセフのもの、ルカの系図はマリヤのものであろうと一部の人たちに言われてきました。その最大の根拠となっているのが、「ヨセフはヘリの子」とあるところで、これはヨセフがヘリの女婿なのであろうという推測に基づきます。しかし証拠があるわけではなく、ちなみに、ユダヤ社会では妻の系図が公表されることはありません。また、31節にソロモンの兄弟ナタンが出てきますが、それもたぶんマリヤの家系であろうとする根拠になっています。しかし、マタイが挙げたダビデ以後の名前は王位継承者のものですからソロモンになっていますが、ヨセフの血縁ということを考えますと、ルカがナタンの名前をあげたことも頷けるのです。そして、不思議なことに、ゾロバベルとサラテルと二代続く名前がマタイとルカ双方に共通しています。この系図をマリヤのものだとしても、ナタンを境に別々の歴史を辿り始めたものが、続けて二人もこの系図に現われるというのはいかにも不自然であり、恐らく、どちらもヨセフの系図と考えたほうがいいでしょう。相違点については、マタイにはマタイなりの、ルカにルカなりの編集方法があったと見るのが自然だと思うのです。


U 新しいダビデとして

 しかしルカは、イエスさまが今まさに救い主として活動し始めようとするところで、何のためにこの系図を記載したのでしょうか。一つには、当時の(恐らくギリシャ人の)著作者たちの習慣をルカも取り入れたということでしょう。そしてもう一つは、何よりも、ヨセフの系図に組み入れることで、ルカはイエスさまがダビデ王家に属する者であることを示そうとしているようです。メシアがダビデ王の家系から出ると、ユダヤ人ばかりでなく、当時の異邦人社会にも広く知られていたからです。ですから、この系図は「ヨセフはヘリの子……」で始まるのではなく、「教えを始められたとき、イエスはおよそ30歳で、人々からヨセフの子と思われていた」(22)から始まると、それがルカの意識ではないでしょうか。そして、ルカの思考方法から言っても、ヨセフから始まる系図が、いつの間にかマリヤのものに変わっていくことはないと思うのです。

 ところで、ルカはわざわざ「イエスさまがおよそ30歳」と年齢のことを加えています。「およそ」とありますから、イエスさまの実年齢は不明なのですが、それでも30歳にこだわっています。これは、ダビデが王に即位した時の年齢(Uサムエル5:4)と一致するのです。つまり、イエスさまは、ダビデ王の系図に名前を連ねるだけではなく、新しいダビデとして登場してきたというメッセージなのでしょう。ヨセフから辿るダビデの系図をここに記したルカの意図が見えてくるではありませんか。

 その30歳のときに、ルカは、イエスさまが「教えを始められた」と記します。これは、恐らくバプテスマを受けられた時のことを言っています。マタイには、悪魔の誘惑を退けられた後、ガリラヤに戻り、「この時から宣教を開始して言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから』」(4:17)とあります。マタイは、その時点をイエスさま公生涯の始まりとしているようです。しかし、ルカにはその部分がありません。マタイのほうが先に書かれましたので、ルカは当然マタイ福音書を知っていたと思われますが、むしろ、その部分を削除することで、受洗と公生涯の開始は同時であるとの印象づけをしていると感じられます。それは、イエスさまバプテスマの意味を問いかけるものではないでしょうか。少し前に戻りますが、実は、「あなたは、わたしの愛する子」(3:22)というところには異写本がありまして、それは、詩篇2:7の「あなたはわたしの子、きょう、わたしがあなたを生んだ」をそのまま採用しています。「わたしの愛する子」とは、その意味なのです。それは、より具体的に言うなら、「今日から、あなたはわたしの全権を担う者となるのだ」ということです。それがイエスさまバプテスマの意味なのです。「教え」とは、神さまの何かを教えることではなく、神さまの全権を担いながらの、私たちの救いに関わるイエスさまのご人格そのものと言えましょう。そのご人格のすべてを傾けて、今、イエスさまは私たちを救おうとする活動を開始されたのです。


V 神さまのご計画が

 この系図には、ルカが覚えて欲しいと願ったもう一つの特徴があります。最後のところです。「エノスの子、セツの子、アダムの子、このアダムは神の子である」(38) きっと、その特徴を探ることで、アブラハム以前の系図をアダムまでさかのぼって記した、その真意が見えてくるのではと思われます。ところで脇道にそれますが、アダムからアブラハムまで21人の名前を創世記と突き合わせてみました。カイナンの名前がありません。ルカは70人訳と呼ばれたギリシャ語訳の旧約聖書を用いていたのです。そこにはカイナンの名前もありました。そして、ギリシャ語でルカの福音書を見てみますと、「このアダムは神の子である」なんていうところはありません。最初のヨセフから最後の神さまに至るまで全部が「〜の」で済ませており、「ヘリのヨセフ(原文・ヨセフ、のヘリ)、マタテのヘリ……神のアダム」という具合です。「〜による」くらいの意味なのでしょうか。「子」という言葉は最初の「イエスは人々からヨセフの子と思われていた」(23)というところに出てくるだけです。これがルカの母国語ギリシャ語の特徴なんですね。非常に簡潔です。そのように読んでいきますと、神さまもアダムやノアのような誰かの名前と同じになってしまうのです。もっとも、「神の(による)アダム」では日本語として成り立ちませんから、「このアダムは神の子である」と訳しても仕方がないのかも知れません。ちなみに、直訳として知られる永井訳は、「イエスはヨセフの子におわして、(ヨセフは)エリの、(エリは)マッタテの、……(アダムは)神の(子なり)」となっています。岩波訳は「〜の」も省いて、ただ名前の羅列にしていますが、これも味がありますね。

 イエスさまについて私たちは、二性一人格とか、三位一体など、とかく「神さまご自身である」と擁護することに熱心になりすぎるところがあります。ところがルカは、何も気張って主張しなくても、イエスさまは神さまの子であって、ごく自然に神さまの栄光をお持ちなのだと言っているようです。ルカは、ギリシャ語の特徴を生かして淡々と記すことで、この系図をたどるとイエスさまは神さまに至ると言っているのでしょう。神さまに至る。それはまぎれもなく、イエスさまが神さまから出たメシアであるというルカの中心主題です。当時、イエスさまも消えていった何人もの自称メシアの一人、という風評が大勢を占めていました。ユダヤでさえそうでしたから、まして、ルカが舞台にしていた異邦人の世界では、一層、そんな冷めた受け止め方が支配していたにちがいありません。この系図は、そういった風評をうち消して余りあるのではないでしょうか。この系図から、神さまの、私たちをご自分の民に加えようとされるご計画が浮かび上がって来るようです。