ルカによる福音書

103 時を超えて(最終回)

ルカ 24:36−53
ハガイ  2:4c−5
T 新しいものへと

 イエスさまよみがえりの第三ステージです。ここも各福音書は違う記事を取り上げていますが、ヨハネに類似しながらもルカは、独自の扱い方でイエスさまの顕現を記しています。

 二人の弟子がエルサレムに戻って来ますと、「11使徒とその仲間が集まって、ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた」(33-34)と大喜びの真最中でした。二人の報告がその喜びを倍加させたことはいうまでもありません。すでに真夜中になっていたと思われますが、その部屋に、イエスさまが入って来られました。しかし、今まで「イエスさまがよみがえられた」と大喜びしていた弟子たちは、「霊(幽霊)を見ているのだと思った」(37)と、それまでの大喜びが嘘のように、だらしなく恐れおののいてしまいます。すると、イエスさまが言われました。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています」(38-39) イエスさまがご自分の手と足に言及されたのは、十字架につけられた釘の大きな傷跡が、まだ生々しくそこにあったからでしょう。40節(欄外注)に「手と足を示された」とあるのは、確認のための後世の加筆と思われます。イエスさまはまず、ご自分がまさしく生きているのだと、弟子たちに納得させようとしています。「ここに何か食べる物がありますか」(41)と言われ、差し出された焼き魚一切れを食べられたのは、弟子たちの不信を徹底的に取り除こうとされたからに他なりません。

 よみがえりのイエスさまは、密室を自由に出入りすることが出来るなど、明らかに普通の人間とは異なっていましたが、そんなお方が、以前のような弟子たちとの交わりをもう一度築き上げようと望まれ、それが焼き魚を食べるという行為に象徴されているようです。何故でしょうか。それは、弟子たちとの間に、もう一ランク上の交わりを構築するためではなかったかと思われます。弟子団の崩壊も、ある意味でその過程だったのでしょう。45節に「彼らの目を開いて」とありますから、二人の弟子の目が遮られ、一緒に歩いているイエスさまを認めることができなかったのも、主ご自身から出たことと思われます。そのようなステップを踏むことで、弟子団の再生が単なる再生ではなく、イエスさまのよみがえりにも似た、新しいものへと組上がっていくことであると、これがルカの、まず第一のメッセージであると聞こえてきます。


U みことばの学びを

 そこでイエスさまが言われました。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした」(44) よみがえりのイエスさまにお会いした弟子たちは、弟子としてまだ再生途中でしたから、それだけに一層、イエスさまのよみがえりをしっかり受け止める必要がありました。第一に、よみがえりのイエスさまが彼らの輪の中に立たれたそれは、幻やおとぎ話ではなく、彼らが食べ、考え、悩み、行動している現実の生活の中においてであり、彼らが「私たちはイエスさまにお目にかかった」と証言できるための経験でした。それが第三ステージ前半の36-43節にまとめられているのです。しかし、イエスさまを信じる信仰は、単なる経験だけの裏打では、それがどんなに確かなものであっても、経験した人たちだけのものであって、経験しない人たちが共有することは出来ません。この第三ステージ後半(44-49)に教えと約束が集中しているのは、福音の更なる広がりのためであるとお分かり頂けるでしょう。

 イエスさまは、これまでに何度もご自分の十字架とよみがえりを話して来られましたが、それは聖書に書いてあるではないかと、エマオ途上の二人の弟子に教えられ(24:26-27)、その同じことを、もう一度、集まっていた多くの弟子たちに伝えられたのです。これが第三ステージ後半における、第一の中心主題です。イエスさまは、聖書を悟らせるために、彼らの心を開いて言われました。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたはこれらのことの証人です」(46-48) イエスさまの意図は、イエスさまの証人として福音を担う弟子たちを教えることであり、彼らにその確認作業(聖書の学び)を求めるものであることは明らかでしょう。教会誕生(使徒行伝)に向けての彼らの準備は、よみがえりのイエスさまを土台とした、信仰と祈りと徹底的な聖書の学びでした。経験的信仰だけでは、希望を抱いたり懐疑的になったりと、その繰り返しになってしまいます。聖書に基づいて、十字架とよみがえりのイエスさまを信じる信仰を確立していく、これこそ新しい弟子団の再生だと、これはルカの意識でもあったのでしょう。彼は、迫害時代を迎えようとする、異邦人教会を視野に入れているようです。そして、聖書の学びを信仰の土台とすることは、現代の私たちにとっても、必要不可欠な絶対条件ではないでしょうか。


V 時を超えて

 第三ステージの中心主題として、ルカがどうしても取り上げたかったもう一つのことがあります。それは、弟子たちへのイエスさまの約束でした。「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高きところから力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」(49) これは、使徒行伝の初めにイエスさまが弟子たちに言われた最後のことばと重なります。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」(1:8)

 「都(エルサレム)にとどまっていなさい」とこれは、再生した弟子団の働きが、まずエルサレムから始まるのだと聞かなければなりません。イエスさまの十字架とよみがえりから新しい出来事が始まると言い換えると、なぜエルサレムなのかお分かり頂けるでしょう。弟子たちの働きが始まる。ルカは、この福音書に続いて、第二の書(使徒行伝)の構想を練っていました。執筆はまだ先のこと(61年ころ、福音書は58年ころ執筆されたと考えられる)でしたが、その構想が先にあったのだろうと思われます。いや、全体の構想というよりも、とにかく教会誕生から初期教会の働きについて、特にペテロとパウロを中心とした弟子たちの記録を残しておかなければと、そんな思いが二つのルカ文書を世に送り出す発端になっているようです。ですからルカは、福音書執筆の目的をさえ、彼が愛してやまない異邦人教会へのメッセージとしています。それが現代の私たちに強く語りかけてくるのは、しばしば、彼の思いが時代を超えているからです。彼は、しっかり理解していました。約束の「いと高きところから着せられる神さまの力」「聖霊」は、時を超えて働かれるお方であることを。そして、聖書の学びには、このお方の助けがあるということも……。

 神さまの力である聖霊、ヨハネはそのお方のことを証言します。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」(14:26) イエスさまが弟子たちを離れて天に帰られた後、代わって、聖霊が弟子たちの先頭に立つという約束です。ですから、イエスさまがベタニヤ(オリーブ山頂)で手を上げて彼らを祝福しながら昇天されると、「彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた」(52-53)と、弟子たちはもはや惑うことなく、「みな心を合わせ、祈りに専念し」(使徒行伝1:14)、その約束を待つのです。聖霊は、イエスさまがともにおられるという、約束(マタイ28:20)の保証でした。彼らの新しい歩みが始まります。