ルカによる福音書

101 よみがえったお方だけが

ルカ 23:56b−24:12
詩篇 33:13−22
T ころがしてあった石

 前回、アリマタヤのヨセフが第一歩を刻み、「ガリラヤからイエスといっしょに出て来た女たち」(23:55)が、暗やみの中に崩壊した弟子団再生の、新しいページを開いたと聞きました。彼女たちはヨセフについて行って、イエスさまの遺体が納められる墓を確認し、その埋葬の次第を見届けたのです。それは49節に「遠く離れて……見ていた」とある女性たちでしたが、ルカは、ほぼ同じ言い方ですが、彼女たちを全く別の証人として描きました。彼女たちは、「戻って来て、香料と香油を用意した」(23:56a)のです。その小さな一歩は、今朝のテキストの始まり、「安息日には、戒めに従って休んだが、週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた」(23:56b-24:1)という彼女たちの、堰を切ったようなイエスさまへの思いが溢れ出た行為につながっていきます。

 墓に着いて見ますと、「石がわきにころがして」(2)ありました。この石は、岩山に掘られた洞窟墓の入り口にかなり深いみぞを作って扉にした、円形の石のことです。みぞは傾斜をつけていますので、閉じる時には楽に転がすことが出来ますが、簡単には開けられないように、小さな石を差し込んで封印してありますので、女性の力で取り除くのはむつかしいのです。道々「どうしようか」と話し合っていたことが、マルコに記録されています(16:3)。彼女たちは、ピラトがそこに番兵を置いていたことを知っていましたから、彼らに頼もうと考えていたようです。ところが到着してみますと、石はみぞに沿ってではなく、みぞを飛び越えたところに倒れ転がっています。「地震が起きて」とマタイは記していますが(28:2)、ルカはそういったことをすべて削除し、「石がころがしてあった」とだけ記します。彼は、入り口にそんな石があったことすら触れていないのです。恐らく、この福音書の読者たちが、その辺りのことを詳しく記録してある、マタイの福音書を読んでいるだろうと前提にしているのでしょう。それなら、この石についての言及も必要ないかと思うのですが、彼は最小限のことばで、「あること」を証言したいと願ったようです。それが何なのか考えてみたいと思います。


U 彼女たちの証言を

 「はいって見ると、主イエスのからだはなかった」(3)とあります。これは、イエスさまのよみがえりを象徴する出来事なのです。その最初の証言、と聞いていいでしょう。石が取り除かれたのは、人の手によるものではありませんでした。父なる神さま、それともイエスさまがなさったことなのでしょうか。少なくとも、入り口の障害だった蓋石がなくなったのは、イエスさまがそこから出て行かれるためではありませんでした。厳重に閉じられた扉を、すり抜けて中に入ることの出来た(ヨハネ19:19)お方ですから。それは、女たちが中に入るためでした。彼女たちは中に入って、そこにイエスさまの遺体がないことを確認したのです。夜が明けて間もなくの頃でしたから、墓の中は薄暗く、遺体に巻いてあった亜麻布が巻かれてそのままに抜け殻になっていたことにも、彼女たちは気がつきません。イエスさまがよみがえったなど、想像もしませんでした。しかし、墓が空っぽだったと証言した彼女たちは、まぎれもなく、イエスさまよみがえりの第一証人になりました。

 イエスさまのからだが見当たらないので、途方にくれていると、「見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が」(4)現われて、恐ろしくてかがみ込んでしまった彼女たちに言いました。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう」(5-7) イエスさまのよみがえりを証言した第二の記事です。「ふたりの人」はまぎれもなく天使でした(マタイ28:5)が、ルカは彼女たちの目線で彼らの様子を表現しました。彼が入手した資料にあったこの証言は、彼女たちのものであると判断したからでしょう。「女たちはイエスのみことばを思い出した」(8)とは、ガリラヤでのイエスさまとの日々を思い出すことで、こんなにも鮮やかに御使いのことばを記憶に留めることが出来たと、ルカは彼女たちの証言に信頼を寄せながら、彼女たちの聞いた天使のことばを、恐らく、そのまま載せました。これは天使の証言ですが、ルカはそれを、彼女たちの証言の一部として扱っているように感じられてなりません。


V よみがえったお方だけが

 それにしても、この記事はイエスさまよみがえりの証言ですが、奇妙なことに、「石がころがしてあった」「はいって見ると、主イエスのからだはなかった」「女たちはイエスのみことばを思い出した」と、いづれも頼りなげな証言に過ぎないと思われる、彼女たちの記録に終始しています。そこには、恐ろしくて逃げ帰ってしまった同じ女性たちの中で、墓の前に残ったただ一人、マグダラのマリヤがよみがえりのイエスさまにお会いしたという、ヨハネが力強く描いている記事(20:11-18)も取り上げられていません。マグダラのマリヤという名前は紹介されているのに、頼りなげな女性たちの一人としてなのです。この女性たちの記事は、「そして、墓から戻って、11弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった」(9-10)、というところで打ち切られます。彼女たちの証言は、男性の弟子たちには認めてもらえませんでした。

 この弟子たちは、彼女たちも知っている場所(ヨハネによると、最後の晩餐が持たれた家)に、集まっていました。そこにはきっと、彼らなりの弟子団再生という意図が込められていたのでしょう。しかしながら、彼女たちが懸命に訴えたイエスさまよみがえりのニュースも、「たわごと」として聞き流されてしまいます。当時のユダヤ人社会では、女性の証言は認められなかったからでしょうか。更に煮詰めて言うなら、それは、信仰の備えが失われ、彼らが無気力になっていたことを物語っているようです。うがった見方をするなら、そんな彼らの無気力が、ある意味で、自分たちとキリスト教信仰の核心部分を軽はずみな迷信から守った、と言えるかも知れません。女性たちの神がかり的な託宣から、いくつもの宗教が誕生した例は数え切れないのです。彼らは、立ち直ってはいませんでした。女性たちのところで、「いかにも頼りなげな」と、そんな印象に触れましたが、同じことが、この弟子たちについても言えるでしょう。新しいページを開いたはずの女性たちを先頭に、信仰の再生を模索しながら、弟子たちは困惑し、混乱の真っ最中なのです。

 12節の「しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った」が〔〕に入っているのにお気づきでしょう。原文にはなかったと思われている箇所ですが、「あった」と見ていいとする人も多く、今のところ、はっきりしていません。むしろ、ルカが書いたものを、ヨハネの記事のコピーとばかりに、削除してしまった可能性が残ります。少なくともこの記事は、ルカのテーマに一致しているのです。そのテーマとは、イエスさまが「いらっしゃらない」ために弟子たちが右往左往している、ということです。そして、彼らは今、ようやくイエスさまは「墓にはいない」というところまで辿り着いたのです。彼らがよみがえったお方にお会いする、「時」が近づいて来ました。その時を、イエスさまは待っておられたのでしょうか。「弟子たちを不信仰から導き出すことの出来るお方は、ただ、十字架とよみがえりのイエスさまご自身である」と、ルカのメッセージが聞こえて来るようです。弟子たちの信仰再生はもう始まっていたのです。イエスさまの中で。迷うことの多い現代の私たちにとっても、同じではないでしょうか。